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文學/小熊秀雄8

一九二八年 戦場哲学 一九二八年 「味方のオクレには、死人の首にてもとるのが手柄也と、権現様御意なり」とは家康公の家来の話であるが、この家康の死人の首云々の言葉は、如何にも彼の言ひさうな言葉であつて、彼の性格の一面が遺憾なく現はれてゐて面白い。若し家康の家来が主人の御意にあるからと言つて、この言葉を真正直に汲み取つて、負け戦に死人の首を取つて引き揚げてきたとしたらどうであらう。 하는 말은 이에야스의 親族의 말이나, 이에야스의 죽은자의 목 운운하는 말은, 어쨋거나 그가 말한듯한 말이며,그의 성격의 일면이 유감 없이 나타나 있어 재미가 있다. 젊은 이에야스의 추종자가 주인의 뜻에 있기에 하면서, 이말을 정직하게 받아들여서 패전시에 죽은자의 목을 쳐서 들어올린다 하면 어떠할것인가?? 決して家康は嬉しがらなかつたらう。かへつて「馬鹿者奴」と叱つたかも知れぬ、この負け戦.. 2022. 2. 25.
1926年 無技巧の技巧 小熊秀雄(오쿠마 히데오) 1926年 何時の時代でも文学的作物の評価は自由であつた筈で、もつとも作品の評価に就いての可否はいろいろあつた。現在でも決して解決づけられたものではないとは思ふ。 宮本君の言はれるやうに『他人の作は自分にわからず、自分の作は他人に判らず』といふ調子の作品を判定する第三者を全然認めないといふ態度は、一昔も二昔もの文学の幼稚園児の言葉であつて、現在では文芸批評といふものは、作品に現れた思想や文体の性質に就いて研究し最善なる標準を指示する目的の下に、立派に存在する一の科学である。 いま更こんなことを説明しなければならないとは世話の焼ける話であるが、 次に詩に於ける技巧は、往々にして純真さを失ひ個性を傷つける場合が少くないからと言ふ理由で技巧などゝいふことはいかなる芸術にも末の末の問題で詩はあくまで平明でなければならぬとの迷論であつたが、私達象徴派詩人.. 2022. 2. 25.
一九二五年 評論・エッセイ(一九二五年) 小熊秀雄(오쿠마 히데오) 異常なる青馬 (이상한 청마) ロシア憧憬者の煽動詩 (러시아 동경자의 선동시) 一 反逆のないところに芸術はないかりにあつたとしても熱情のない夢遊芸術であり、昨日と今日の作業であり明日の進軍ではないのである。しかし熱情はけつして運動を意味してはゐない。静止した風に送別され静止した帆が、矢のやうに潮流の旅行をつづけてゐるのを自分はたまたま発見する、例へば芸術上の虚無主義などは鮮明に静止した帆と言ふことができる、虚無主義の根は反逆と憤懣と感激との凝結であつてけつして無抵抗の悦楽と安住とに人生の悩苦を逃れようなどといふ臆病者ではないのである。凍結した火、潜まつた嵐であり、見えざる進軍であるのである 반역이 없는곳에 예술은 없으며 설령 있다해도 정열이 없는 몽유예술이며,어제와 오늘의 작업이지 내일의 진군은 아닌 것이다... 2022. 2. 25.
1924年 長髪を愛せよ 小熊秀雄(오쿠마 히데오) 1924年 わたしは長髪弁護をする程に小心でありたくない、だがこれは愛らしい私の髪にたいする、軽蔑と誤解と罵倒とに捧げる小さな反抗の歌であり併せて我々は 長髪族に与へる讃歌であると思へば間違ひない。だから肩の凝らない程度で読んで欲しいこの一篇である。 나는 장발변호를 할정도로 소심하게 굴 필요는 없으나, 이것은 사랑스러운 나의 모발에 대한 경멸과 오해와 매도에 대한 작은 반항의 노래이며 아울러 우리들이 장발족에 기여하는 찬가이라고 생각하면 틀림이 없다. 따라서 어깨에 힘을 주지 않을정도로 읽었으면 하는 바램으로 쓴것이 이 한편의 평이다. 「小熊の髪」に就いての批評、この批評の中には悪罵党と讃美党が含まれてゐる。私にとつてはいづれ有り難いことだ、同時にまことに有り難くない迷惑千万なことだ、要は無関心党であつて欲し.. 2022. 2. 25.