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中國詩

陶淵明の文学について

by wannee 2022. 3. 1.
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陶淵明の文学について

伊 藤 直 哉

キーワード:陶淵明、中国文学、漢詩

 

 中国の詩人陶淵明<とうえんめい(365 ~ 427)が世を去ってから、すでに千六百年近くの時が流れ過ぎた。その長い歳月の中で、陶淵明の文学に対して、数多くの研究や解釈がなされてきた。だがそれゆえにこそ、彼の文学の語り尽くせぬ深みは、ますます明らかになってきたと言うべきである。なぜか?
 彼の作品は複雑なる多面体であって、見る角度が異なれば、違った光彩を放つためである。つまり陶淵明の文学は、多種多様な読解を引き出しうる生産性の高いテキストなのである。
 本稿は、陶淵明の作品の幾つかについて思うところを述べたものである。複雑な多面体の、一つの側面を探る試み、と解していただければ幸いである。

 

1.悲しい歌とユーモア

 いきなり珍奇な章題を示してしまったが、その理由は、この章を最後まで読んでもらえれば分かっていただけると思う。
 陶淵明は隠いんいつ逸詩人(詩を書いた隠者)として知られる。彼は405 年、四十一歳の時に(以下、年齢は昔の習慣に従い、数え年で示す)役人を辞めて隠者となった。そして農作業に励みつつ、作品を書いていった。しかし働けど働けど暮らしは楽にならず、晩年には、赤貧洗うが如ごとしの状態になった。
 以上に記したのは、一般的な陶淵明理解である。少数の研究者(筆者を含む)は「そうではなかろう」と考えている。なぜなら一般的な理解に拠るとなると、陶淵明の生活レベルについて矛盾なく説明できなくなるからである。(詳しく知りたい方は、石川忠久氏『陶淵明とその時代』(研文出版)、及び拙著『「笑い」としての陶淵明』(五月書房)、『桃源郷とユートピア』(春風社)を参照されたい。)
 ところで、筆者は決して一般的な理解を「否定」するつもりなどはない。と言うのも、よほど注意深く作品を検討しないと、彼の生活レベルは見えてこないのであり、「貧しい農民詩人」というイメージが読者の心に自然に形成されていく。このような力を有すること、それも陶淵明文学の大きな特色である。

  そうして形成された陶淵明の姿は、すでに一つの「史実」になっている。また、この史
実に基づいて作品を味わう方法は、多くの文学的成果を上げてきた。陶淵明の受容史を一望するならば、そのことは容易に見て取れるであろう。

  筆者は、一般的理解の価値を十分に尊重しつつも、それとは異なる方法で作品を検討しようと思う。まず取り上げるのは、貧乏生活の悲惨さを嘆いた詩である。題名は「怨えんしそ詩楚調ちょう龐ほう主しゅぼ簿鄧とう治ちちゅう中に示す(怨詩楚調示龐主簿鄧治中)」と言う。
 詩題にある怨えんしそちょう詩楚調とは楽がふ府題、つまり古いにしえの歌謡曲の題名である。中国では同じ歌謡曲のメロディーに、さまざまに異なる歌詞を当てはめて詩を作ることが行われた。言わば「替か え歌」である。陶淵明は怨えんしそちょう詩楚調の曲を本もとうた歌として、替え歌を作ったわけである。(怨詩楚調の次に記された龐ほう主しゅぼ簿・鄧とう治ちちゅう中は、詩を贈った相手を指したもの。龐ほう・鄧とうは苗字で、主簿・治中は官職名である。)
 ところで最も古い怨詩楚調の歌は、楽がふ府のアンソロジーである『楽府詩集』第四十一巻「楚調曲」上に収められた「怨えん詩し 行こう」(行こうは歌の意)でる。陶淵明の作品を読む前に、まずは、この本もとうた歌である「怨えん詩し 行こう」を紹介しよう。以下、左の段には拙訳を記し、その右に書き下し文・原文を示した。


 

いつまでも天に終わりは無いけれど  

天徳 悠はるかにして且か つ長く   

天徳悠且長


人の命はまことに短い        

人命 一いつに何ぞ促みじかき      

人命一何促


人生は本当に儚はかなくて         

百年 未いまだ幾いくとき時ならざるに   

百年未幾時


風に吹かれるローソクのよう     

奄えんとして風の燭しょくを吹くが若ごとし  

奄若風吹燭


良き客まれびと人に次に会えるのは、いつ?  

嘉か 賓ひん 再び遇あ い難がたし      

嘉賓難再遇


人の命は限りあり          

人命 続く可べ からず      

人命不可続


みんなあちこち旅しても       

斉ひとしく度わたって四方に遊ぶも   

斉度遊四方


結局あの世に登録済みだ       

各おのおの太たい山ざんの録に繋つながる     

各繋太山録


この世の楽しみ尽くさぬうちに    

人じんかん間に楽しみ未いまだ央つ きざるに  

人間楽未央


あっと言う間ま にあの世行き      

忽然として東とうがく嶽に帰る     

忽然帰東嶽


さあ思いっきり           

当まさ須に中ちゅうじょう情を盪うごかし      

当須盪中情


心ゆくまで楽しまないと       

心を遊ばせて欲する所を恣ほしいままにすべし   

遊心恣所欲
                  
   以上見たように怨えん詩し 行こうは、その名の通り、怨かなしみの詩う行た
である。人生の儚はかなさを、切々と歌い上げたものだ。作者名は伝わっておらず、無名氏(よみ人知らず)の歌、つまり民間の歌謡である。よって技巧的には未成熟で、同一内容のくりかえしが目立っている。 

 

  この怨えん詩し 行こうは悲しみの歌ではあるが、発表された場面を考えてみると、「良き客まれびと人に次に会えるのは、いつ?」という詩句からして、客を招いた宴会で歌われたものであろう。その推測は、最終句「心ゆくまで楽しまないと」からも裏付けられる。つまり怨詩行は、宴会で歌われた悲しみの歌なのだ。で、これを本歌にした陶淵明「怨詩楚調示龐主簿鄧治中」を味わう際には、この点についても注意すべきであろう。
 さて次はいよいよ陶淵明の詩である。ところで怨詩行が十句であるのに対し、陶淵明の詩は倍の二十句である。それはおそらく、くりかえして曲を演奏し歌詞を当てはめたものと思われる。では前と同じく、拙訳・書き下し文・原文の順で紹介しよう。

お天道(てんと)様が当てになるかね?      

天道(てんどう)は幽(かす)かにして且(か)つ遠く  

天道幽且遠


神々も一体どこに在(いま)すやら       

鬼神(きしん)は茫昧(ぼうまい)然たり      

鬼神茫昧然


若い頃より善行に励み         

結髪(けっぱつ)より善事を念(おも)い     

結髪念善事


五十四まで努力したのに        
僶俛(びんべん)たり六九ろっく年       

僶俛六九年


二十の時に世の中乱れ         

弱冠 世の阻(けわ)しきに逢(あ)い   

弱冠逢世阻


三十で最初の妻があの世行き      

始室(ししつ) 其(そ )の偏を喪(うしな)う     

始室喪其偏


しばしば日照りに悩まされ       

炎えん火か  屡(しばし)ば焚如(えんじょ)にして    

炎火屡焚如


害虫どもが田畑を荒らす        

螟(めいよく)蜮 中田(ちゅうでん)に恣(ほしいまま)にす     

螟蜮恣中田


加えて嵐も吹きすさび         

風雨(ふうう) 縦横(じゅうおう)に至り      

風雨縦横至


泣きたいくらい少ない収穫       

収斂(しゅうれん)廛(てん)に盈(み) たず      

収斂不盈廛


夏はいつでも餓死寸前         

夏日(かじつ) 長(つね)に飢(うえ)を抱(いだ)き     

夏日長抱飢


寒い冬の夜よ ふとん無し         

寒夜(かんや ) 被(ひ) 無くして眠る    

寒夜無被眠


夜よるには「早く朝になれ」         

夕(ゆうべ)に造(いた)れば鶏鳴(けいめい)を思い    

造夕思鶏鳴


朝には「早く夜になれ」と願うだけ   

晨(あした)に及べば烏遷(うせん)を願う    

及晨願烏遷


みんな自分のせいなのさ        

己(おのれ)に在り 何(なん)ぞ天を怨まん  

在己何怨天


そう諦(あきら)めたって余計に切ない      

憂いに離(あ )うは目前に悽かなし   

離憂悽目前


ああ死後の名声なんぞは        

吁嗟(ああ) 身後の名       

吁嗟身後名


浮き雲みたいに空しいものよ      

我に于(おい)て浮雲(ふうん)の若(ごと)し     

于我若浮雲


感きわまって悲しく歌う我が想い    

慷慨(こうがい)して独り悲歌し     

慷慨独悲歌


君たちは賢人鍾(しょうしき)子期の再来ゆえ分かってくれよう     

鍾期(しょうき)は信(まこと)に賢なりと為(な )す   

鍾期信為賢

  この詩は、友人の役人たちに対して、衣食にも事欠く貧乏生活を切々と訴えたもので、晩年に陶淵明が陥った困窮ぶりをリアルに伝えている。……と言うのが一般的な理解である。すでに述べたように、筆者はそういう鑑賞法を否定するものではない。陶淵明の文学が、そのような味わい方を導き出す描写力を備えているためだ。
 しかし前掲の拙著で詳述したように、これは「創作された貧乏」であって、陶淵明の生活実態を反映したものではない。そして、写実としてではなく創作文学として鑑賞しても、違った魅力を感じ取れるのである。

  その際に鍵となるのは「ああ死後の名声なんぞは、浮き雲みたいに空しいものよ」という詩句である。ここに注目してみよう。
 よくよく考えると、この表現はいささか唐突である。それまで自分の悲惨な困窮ぶりを訴えてきたというのに、なぜ突然「死後の名声」などと言い出すのだろうか?そんなことを考える余裕などない、切迫した状況を訴えているはずなのに。袁えんこうはい行霈氏は『陶淵明集箋注』(中華書局)で、この点に関し疑念を示している。
 さて古こちょく直氏は『陶靖節詩箋』(広文書局)で、この詩句は、陶淵明より百年ほど前の張ちょうかん翰の故事に基づくと指摘している。卓見ではあるが、氏は「その意味合い」にまでは触れていない。

   張翰(ちょうかん)は、王朝で言えば西晋(せいしん)から東晋(とうしん)にかけての人物であり、自由気ままな生活ぶりで知られていた。そこで付いた徒名(あだな)は「江東(こうとう)の歩兵」、つまり江南(こうなん)地方における歩兵校尉阮籍(げんせき)の再来と言われていた。阮籍(げんせき)は三世紀魏(ぎ )の時代の人、魏を代表する文学者であると同時に、中国史上まれに見る飲んべえでもある。
 それでは以下に張翰の故事を紹介しよう。『世説新(せせつしんご語)』に見える故事である。原文は省略し、拙訳と書き下し文を記した。

   張季鷹 (ちょうきよう)(張翰のこと)は気ままに暮らしていた。当時の人々は「江南の阮籍」と徒名(あだな)を付けた。ある人が、「君はこの世で気ままに振る舞っているが、死後の名声を考えたことはないのかね?」と尋ねた。張は答えた。「死後の名声なんかより、大切なのは今この時の一杯の酒だ。」
   張季鷹は縦(ほしいまま)に任せて拘(かかわ)らず。時人(じじん)号して江東の歩兵と為(な )す。或(あ )るひと之(これ)に謂(い )いて曰(いわ)く、卿(きみ)は乃(すなわ)ち一時に縦(ほしいまま)に適す可(べ )きも、独り身後の名を為(な )さざらんや。答えて曰(いわ)く、我をして身後の名有らしむるは、即時一杯の酒に如(し)かず。
 さて陶淵明は、この故事を踏まえて「ああ死後の名声なんぞは、浮き雲みたいに空しいものよ」と歌っている。よって歌の心は、この張翰の故事にあるように「死後の名声なんかより、大切なのは今この時の一杯の酒だ」ということ。要するに「大切なのは酒ですな」というメッセージを、友人の役人たちに暗示しているわけだ。すなわち悲しみの歌、実はユーモアの歌なのである。
 それからこの詩は、言わば「文学的なぞなぞ」である。「一見悲しい歌だけど、裏の意味、分かるよね?」というクイズ・頭の体操である。また、詩を示された龐ほう主しゅぼ簿・鄧とう治ちちゅう中の二人が(知恵を搾しぼりさえすれば)回答できる、ということも前提としている。それが最終句「君たちは賢人鍾しょうしき子期の再来ゆえ、分かってくれよう」である。相手を『呂りょししゅんじゅう氏春秋』に見える賢人鍾しょうしき子期になぞらえ、「答えられるよね?」と励ましているわけである。

  さて歌の心が「大切なのは酒ですな」である以上、その発表の場も推測できよう。そう、この詩は酒宴で発表されたのであり、宴席の気分高揚のために歌われたものである。では、なぜ悲しい貧乏暮しの歌が宴会の気分を高めるのかというと、理由は簡単である。カラオケを例に考えてみよう。そこではまさしく、悲しい歌(失恋の悲しみの歌とか)が宴席の気分高揚に役立っているではないか。
 人間というのは複雑な存在だから、楽しい歌だけではなく、悲しい歌だって気分を高めうるのである。陶淵明のこの詩は、人間の複雑さ(あるいは文化の豊かさ)を考える際に、大いに参考になりうるであろう。
 さて、この詩の本もとうた歌である怨えん詩し 行こうについて振り返っておこう。怨詩行は、どんな歌であったろうか?やはり、宴会で歌われた悲しい歌である。客人を招いた宴席で、人生の儚はかなさを切々と歌い上げたものだ。そしてその目的は、言うまでもなく、宴会の気分高揚である。
 陶淵明は、怨詩行における「人生の儚さ」を「自分の貧乏」に置きかえ、迫真の描写力
で困窮ぶりを描き出し、最後には「裏の意味、分かるよね?」とクイズ・頭の体操を持ち出している。洗練されたユーモアの詩、と言うべきであろう。

 

2.巡(めぐる)季節、神話の世界

  この章で鑑賞したいのは「巡(めぐる)季節(時運(じうん)」という詩と、神話世界を描いた詩「山海経(せんがいきょう)を読む(読山海経)」である。
 まず「巡る季節(時運)」から見ていこう。この詩の題には「幷序(幷(なら)びに序)」という付記があり、序文が付いている。それから詩の本文が始まっている。読者の皆さんの便宜のため、(序)(本文)という表示を付け加えた。また、(序)は訳文のみを記した。

(序)


「巡る季節」は、暮春の散策を描いたもの。春着は新しく、眺めはのどか。影法師と共
に歩めば、喜びと嘆きが胸を交差する。

(本文)

移り行き巡る季節よ          邁邁(まいまい)たる時運(じうん)       邁邁時運


うららかな良き朝よ          穆穆(ぼくぼく)たる良朝(りょうちょう)       穆穆良朝

 


新しい春着を着て           我が春服(しゅんぷく)を襲(かさ)ね      襲我春服


村の東へ散策に            薄(いささ)か言(ここ)に東郊す      

 

薄言東郊


霞の中より現れたる山         山は余靄(よあい)を滌(あら)い      

山滌余靄

 

 


空にたなびく薄い雲          宇(そら)は微霄曖(びしょうあい)たり      宇曖微霄


南の方から来る風が          風有り南自(よ )りし      

 

有風自南


田畑の苗を守り育(はぐく)む       彼(か )の新苗(しんびょう)を翼(たす)く      翼彼新苗


野原の川の渡し場で          洋洋たる平津(へいしん)       

 

洋洋平津

 

口を漱(すす)いで手足を洗う       乃(すなわ)ち漱(すす)ぎ乃ち濯(あら)う      乃漱乃濯


遥か向こうの風景を          邈邈(ばくばく)たる遐景(かけい)       邈邈遐景

 


楽しんで眺めやる           載(すなわ)ち欣(よろこ)び載ち矚(み )る      

載欣載矚


誰かの言葉に             人も亦(また)言う有り       

人亦有言


「満足は身近な所に」と           心に称(かな)うは足(た)り易(やす)しと    

称心易足


杯(さかずき)を手にして          玆(こ)の一觴(いっしょう)を揮(ふる)い       揮玆一觴

 


陶然と酔い心地            陶然と自(みずか)ら楽しむ      

陶然自楽


流れる水に目をやって         目を中流に延(の)べ       

延目中流


遥かに思う『論語』に見える沂(き )の川を 悠(はる)かに清沂(せいき)を想う      悠想清沂

 


孔子の弟子の青少年らは        童冠(どうかん)業を斉(ひと)しくし      童冠斉業

 


のんびり歌って帰ったものだ      閑詠(かんえい)して以(もっ)て帰る      閑詠以帰

 


静かな境地に心ひかれて        我其(そ)の静けさを愛し     

我愛其静


寝ても覚(さ)めても慕い求める       窹寐(ごび)に交(こもご)も揮(ふる)う       窹寐交揮

 


されど時代は隔たって          但(ただ)恨むらくは世を殊(こと)にし   

但恨殊世


その仲間にはなれやせぬ         邈(ばく)として追う可(べ )からず    

邈不可追


朝も夜も                斯(こ)の晨(あした)斯の夕(ゆうべ)        

斯晨斯夕


我が庵(いおり)に身を寄せる        言(ここ)に其(そ)の廬(いおり)に息(いこ)う      

言息其廬


並んで茂る薬草と            花 薬(かやく)列を分かち       

花薬分列

 


小おぐら暗き影の竹林(たけばやし)    林竹(りんちく)は翳如(えいじょ)たり       林竹翳如


寝床に琴が置いてあり           清せい琴きん床しょうに横たえ       

 

清琴横床


瓶かめに半分濁にごり酒         濁酒壺(だくしゅつぼ)に半ばなり      濁酒半壺

 


古(いにしえ)の聖なる御世(みよ)を思う時  黄唐逮(こうとうおよ)ぶ莫(な )く        黄唐莫逮

 


小生独(ひと)り嘆くのみ          慨(なげ)きは独り余(われ)に在り     

慨独在余

  見た通りこの詩には、優れた抒情と叙景とが散りばめられている。中でも、古今の評者に絶賛されているのは「南の方から来る風が、田畑の苗を守り育(はぐく)む(有風自南、翼彼新苗)」である。
 ただ、詩全体としては「不安定」な作品と言うべきであろう。陶淵明自身も(序)で「喜びと嘆きが胸を交差する」と述べている。つまり、大きな感情の変転が表現されている。それが何に起因するのかは、後で考えてみたい。
 さて、この詩の重要な背景となっているのは、『論語』に見える孔子の弟子曾晳(そうせき)の話である。(序)の「暮春の散策を描いたもの。春着は新しく(原文:遊暮春也。春服既成)」は、曾晳(そうせき)の言葉をほぼそのままに用いている。また(本文)の「遥かに思う『論語』に見える沂(き)の川を。孔子の弟子の青少年らは、のんびり歌って帰ったものだ」も、曾晳の言葉に基づいている。しかし従前の解釈は、出典を示すことに止まっており、その意味合いの分析は不足していたと言わざるをえない。

  意味合いを探るには、曾晳の言葉だけでは不十分で、この言葉が出てくる『論語』の箇
所の、文全体を見る必要がある。では以下に、この箇所の拙訳を記そう。(曾晳の言葉は、太字で示した。)

    子路(しろ)・曾晳・冉有(ぜんゆう)・公西華(こうせいか)が、孔子のそばで寛(くつろ)いでいた。孔子が言った。「私が年上だからといって、遠慮はしないように。いつも『自分は理解されていない』とボヤいているだろう?理解されたとしたら、何をやりたいかね?」いきなり子路(しろ)が答えた。「中規模の国が大国から脅(おど)され、軍隊の侵略を受け、続いて飢饉(ききん)に悩まされた場合、私がその国を治めれば、三年以内に勇敢な国民に鍛(きた)え上げ、それから人の道も弁(わきま)えさせます。」孔子は苦笑した。そして「求<きゅう>(冉有<ぜんゆう>のこと)、お前は?」と尋ねた。答えて言った。「六七十里または五六十里の土地を私が治めれば、三年以内に民衆の生活を豊かにさせます。文化的生活のことは、有識者に任せます。」「赤<せき>(公西華<<こうせいか>のこと)、お前は?」答えて言った。「立派に行ってみせる、というのではなく、勉強したいのです。御霊屋<みたまや>での宗教行事や殿様たちの会合の際に、礼服・礼帽を身に着け、いささか司式の役を務<つとめ>ることを。」「点(曾晳のこと)、お前は?」曾晳は琴を弾<ひく>のをやめ、静かに琴を置いて立ち上がり、答えて言った。「みんなのような立派な志ではありませんが。」孔子は言った。「構わんよ。自由に言いなさい。」曾晳は言った。「暮春のころ春着は新しく、青年五六人と少年六七人を連れて沂き の川で水浴びし、雨乞いの台で涼み、歌いつつ帰って来ましょう。」孔子は「ああ」と感嘆すると、「点<てん>(曾晳)の考えに私も賛成だな」と言った。三人が退出して、曾晳が残った。曾晳は「あの三人の言葉はどうですか?」と聞いた。孔子は「みんな自由に考えを言ったまでさ」と答えた。「先生はなぜ由<ゆう>(子路(しろ)のこと)の言葉に苦笑したのですか?」先生は答えた。「国を治めるには礼に拠るべきだが、あいつの言い方が不躾なので苦笑したんだよ。求<きゅう>も国の治め方を言ったのだ。六七十里、五六十里四方の土地ならば、国ではないかね?赤せきも国のことを言ったわけだ。御霊屋<みたまや>の宗教行事や会合とかは、殿様が主催するものだろうが。赤が『いささか』と言うなら、誰が大きな役を引き受けられるんだね?」

   以上に見た曾晳の答えは、その表現自体が、一篇の散文詩と言えるだろう。原文を記しておくと「莫春者、春服既成、冠者五六人、童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而帰」である。張亨<ちょうこう>氏も『思文之際論集』(允晨文化事業)で、この表現の詩的な美しさを論じている。
 さて曾晳の答えは、孔子の全面的な賛同を得ている。理由を考えてみるに、他の弟子たち(子路<しろ>・冉有<ぜんゆう>・公西華<こうせいか>)が述べた抱負は「外面的な政治の業績」という側面に止まっている。対するに曾晳は、より内面的な美しさを求めている。実はこれこそが、孔子の考え──内面的な美を追求し、その基盤の上で、良き政治家たらんとする──に合致したのであろう。

  ところで『論語』を読んだことがあっても、曾晳という名前が印象に残っている人は少

ないであろう。それも当然である。『論語』における各人の登場回数を見れば、すぐ分かる。子路:43 回、冉有:17 回、公西華:5回、曾晳:2回。要するに、曾晳は目立たない脇役である。だが陶淵明は、曾晳に並々ならぬ関心を寄せているわけだ。それはなぜか?
 一つめの理由は、曾晳の言葉の詩的な美しさに魅ひ かれたためであろう。「静かな境地に心ひかれて、寝ても覚さ めても慕い求める」という詩句が、その証拠となる。二つめとしては、この詩を作った時の境遇が関係しているだろう。この詩がいつ作られたか、論者によって説は分かれるが、四十歳の作と見るのが妥当だと思う。
 一海知義<いっかいともよし>の「陶淵明」(筑摩書房『陶淵明 文心雕龍』所収)によれば、この詩は「雨雲<あまぐも>(停雲<ていうん>)」「花咲く木(栄木<えいぼく>)」と並んで三部作を構成している。鋭い指摘と言うべきである。
 この三作は、いずれも二十七字の(序)と三十二字の(本文)から成っている。整然として、一字の違いもない。また描かれている季節を見ても、「雨雲」→初春、「巡る季節」→晩春、「花咲く木」→初夏、というように順序だった配列になっている。おそらく同時期の作であろうと思われる。この三部作の成立時期を考えるに当たっては、「花咲く木」に次のような表現があるのに注目したい。

孔子様の教えを            先師の遺訓          

先師遺訓


忘れてはならない         余豈云(われあにここ)に墜(おと)さんや       余豈云墜


「四十で名を成せなくては     四十にして聞こゆる無きは   

 

四十無聞


優れた人間にはなれぬ」とある   斯畏(これおそ)るるに足らず    斯不足畏

 


車に油をさし            我が名めいしゃ車に脂あぶらさし       脂我名車


馬に鞭を当て出発だ         我が名驥(めいき)に策(むちう)たん       策我名驥

 


たとえ千里の彼方でも        千里は遥かなり雖(いえど)も      

千里雖遥


必ず辿(たど)り着こう        孰(たれか)敢(あえ)て至らざらん      

孰敢不至

 

  ここから見て取れるのは、再び官界で自己実現を目指そうという意欲である。そして陶淵明は四十歳の時(404 年)、鎮軍<ちんぐん>将軍劉裕<りゅうゆう>の下もとに出仕した。(廖仲安<りょうちゅうあん>氏『陶淵明』上海古籍出版社、の説による。同書は、あたう限りの着実な考証を重ねた労作である。)
 では、それまで陶淵明はどう生きてきたか?再び廖氏の本を参照すると、三十六歳の時(400 年)、桓玄(かんげん)という日の出の勢いの大軍閥の下(もと)に仕えた。しかし、三十七歳(401 年)の時に母が亡くなり、郷里に帰って喪(も)に服する。官職を辞めて父母の喪に服する期間は、足かけ三年であった。その期間中の403 年、桓玄(かんげん)は東晋(とうしん)王朝の帝位を奪う。だが翌404 年、劉裕(りゅうゆう)が桓玄を倒す。軍功によって、劉裕は鎮軍(ちんぐん)将軍に任ぜられた。おりしも喪が明けた陶淵明は、今度は劉裕の下に仕えた。
 こう見ていくと、王朝末期の変転きわまりない勢力争いの中で、如何(いか)に生きのびていくか、陶淵明が苦心惨憺したことが窺える。前に触れたように「巡る季節」の詩には大きな感情の転変が存在するが、それは以上のような作者の境遇によるものであろう。つまり、この詩の不安定さは、時代の変遷の中で揺れ動く詩人の心を、如実に反映したものと言えるだろう。

  また陶淵明はこの詩で、「自分は曾晳のように目立たない存在だが、役人として努力したい」という気持ちを詠出しているのかも知れない。時代背景から考えると、その可能性は高いと思う。
 陶淵明は、権力争いの世をなんとか生きのびようと努めてきたが、翌405 年、四十一
歳の時、ついに官僚の世界で徹底的に挫折をし、有名な「帰ききょらい去来の辞」を書き記して隠者となったのであった。

  本稿の最後には、隠者生活の中で書いた連作詩「山せんがい海経きょうを読む(読山海経)」の「其そ の三」を鑑賞してみよう。まず詩題にある『山せんがい海経きょう』について説明すると、この書は、古代中国の特異な神話の本である。陶淵明はこの本を愛読していた。その愛読の仕方は、神話研究者の袁えんか珂氏が『中国神話史』(上海文芸出版社)で述べているように、『山海経』を文学として味わうというものだった。本稿では、「文学として味わう」とはどういう意味なのかを考えてみたい。
 それでは、「山海経を読む」の「其の三」を見てみよう。

遥かなる槐江山(かいこうざん)の峰々は 迢逓(ちょうてい)たる槐江(かいこう)の嶺(みね)        

迢逓槐江嶺


聖なる庭園玄圃(げんぽ)の丘がある所  是これを玄圃(げんぽ)の丘と謂(い )う       是謂玄圃丘


西南に見える崑崙山(こんろんざん)の  西南に崑墟(こんきょ)を望めば       西南望崑墟

 


輝きは並ぶものなし                 光気与(こうきとも)に儔(たぐい)し難(がた)し        光気難与儔


宝石の光に彩(いろど)られて聳(そびえ)立ち 亭亭(ていてい)として明玕(めいかん)照り       亭亭明玕照

 


山裾(やますそ)に清く流れる瑶(よう)の川  落落(らくらく)として清瑶(せいよう)流る       

落落清瑶流


残念至極(しごく)、周(しゅう)の穆王(ぼくおう)と共に 恨むらくは周穆(しゅうぼく)の        恨不及周穆

 


馬車でこの地に来れなくて    乗(じょう)に託して一たび来遊するに及ばざりしを   託乗一来遊
    

   このように、目に見えるように鮮やかに、神話世界が描かれている。それはなぜかと言うと、陶淵明が実際にこの世界を見たからである。こういう書き方をすれば、読者の皆さんは「えっ?」と思ってしまうだろうが、もう少し我慢して読んでいただきたい。
 「実際に見た」ことを示すのは、最終二句「残念至しごく極、周しゅうの穆ぼく王おうと共に、馬車でこの地に来れなくて」である。まず周の穆王について言うと、穆王は紀元前十世紀ごろの天子で、『穆天子伝』という特異な史書には、遥か中国の西の果てまで旅をしたと記されている。
つまり穆王は陶淵明より千数百年前の人だから、一緒に旅行するのは不可能であって、それが残念だと言っているわけだ。
 では、陶淵明はどこに視点を置いて書いているのだろうか?それは、神話世界の内部である。その世界に一緒に「来れなくて」残念だ、と述べているわけだ。作者の視点は明らかに神話の中にある。外にあるのではない。それを示すのが「来」の字である。(原文:託乗一来遊。)  

    ところで中国・日本の諸訳注を見るに、この「来」を「来る」の意であると明記してい
るものは、意外に少ない。それどころか、逆に「行く」の意味に解しているものさえある。「行く」では、作者の視点は外にあることになる。つまり神話世界に陶淵明はいない、ということになる。神話の光景を、実体験としてありありと見届けることは不可能になってしまう。(また、「来る」と訳している本でも、その意味合いについて着目しているものは、管見の限りでは存在しない。)
 前掲の拙著『桃源郷とユートピア』で述べたところだが、陶淵明の読書は実に特異であって、「本の世界と一体化する」読み方をしたと考えられる。彼の文学の魅力は、そういう特殊な読書体験に裏打ちされたものと言える。「山海経を読む」の詩を見ても、この読書法が顕現している。
 それから、本稿で取り上げた「怨詩楚調」や「巡る季節」の描き方にも、描写対象との
一体化が見られる。「怨詩楚調」では、悲惨な貧乏生活のイメージとの一体化、「巡る季節」では春の風物との一体化が行われていると思う。
 優れた作品の創作には、何かと一体化するという体験が不可欠ではないだろうか?陶淵明の文学は、そのことを教えてくれるものでもあろう。

      

 

 

 

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