본문 바로가기
佛道禅

老子中国思想の智慧への門

by wannee 2022. 2. 28.
반응형

老子中国思想の智慧への門


王岳川
〔上田望訳〕


内容提要
拙論は文化哲学の視角から、老子の哲学・美学思想を新たに見つめ直し、
老子その人その書に関する謎を通して老子哲学の智慧に包含される巨大な思
想の対話空間を見ていこうとするものである。まず、老子とその著作『老子』
についての学術史上の「疑古」「信古」「釈古」の問題についてそれぞれ論じ、
老子哲学の本体論と宇宙論の精神、認識論と弁証論の智慧、人生論と政治論
の理想を明らかにし、さらに踏み込んで、老子思想の智慧の現代社会におけ
る警世の効果についても詳述する。


これは文化史・学術史上しばしば見受けられることだが、影響の大きい学
説ほどその真偽に関する弁論も激烈である。しかも、ときにはその時代の雰
囲気や学術のコンテクストが原因となって、それによって生ずる意識的なあ
るいは無意識の誤読や考証の疎漏が、しばしば偉大な思想家の思想を遮断も
しくは変形してしまう。しかしながら、新しい思想の分析角度から歴史の誤
謬を糾し、思想をその本来の姿に立ち返らせたとき、「疑古」の時代から抜け
出すのは必然的である。同時に、このような古代文化哲学精神の近代的再認
識は時代の逆説の中の宇宙や人生の智慧を歴史の地表に浮かび上がらせ、時
を経ていよいよ新しいものになっていくであろう。


解釈しつくせない老子は、たとえある種の具体的な言説が時代のコンテク
ストからかけ離れ、意味の幻想を作り出しているとしても、その体現すると
- 2 -


ころの全体の思想・智慧や宇宙人生に対しての透徹した悟りは、疑いもなく
時空を超えて我々に開放された精神的魅力を具えているのである。


1 老子その人その書にまつわる謎
老子その人その書は今世紀初めの「疑古」の学術思潮の中 で時代文化に (1)
よって誤読され、広範囲で激烈な学術論戦を引き起こした。この論戦は二つ
に分けることができる。一つのテーマは、老子という人物が実在したか否か、
そしてその人は一体いつ生きていたのかということである。そしてそのあと
に『老子』が老子の著したものであるかどうかというテーマがくる。


第一の問題に関していえば、司馬遷は老子のために伝記を書いた最初の人
間であり、司馬遷の見方を我々は軽視することはできない。漢代は老子から
すでに相当の時間的隔たりがあるため、司馬遷は老子の伝記を作るとき、慎
重に資料に基づいて記述した。彼は『史記・老荘申韓列伝』で次のように述
べている。「老子は楚の苦県〔河南省〕の厲郷、曲仁里の人である。姓は李氏、
名は耳、字は髟といい、周王室の書庫の記録官であった。………老子は道徳
〔虚静無為の道〕を修めたが、その学問は、自らの才能を隠し、いわゆる名
声などをあげないことを旨とした。久しい間周にいたが、周が衰えたのを見
て取りついに立ち去った。関(函谷関とも散関ともいう)に至ったとき、関
守の尹喜が言った。“先生はいま隠遁しようとしておられます。どうか、まげ
て、私のために書物を残してください”そこで、老子は上下二篇の書を記述
し、道徳の意について五千余字の文章を残して立ち去った。その後、老子が
その生涯をどこでどのようにして終わったかを知るものはない。ある人は、
“老棲子もまた楚の人である。著書が十五篇あって、道家の功用についての
べている。孔子と同時代の人だということだ”という。老子は百六十余歳ま
で生きたといわれ、あるいは二百余歳まで生きたといわれる。道を修めて寿
を養ったからであろう。孔子の死後百二十九年たっての史官の記録に、“周の
太史の捶が秦の献公にまみえて、‘はじめ、秦は周と合して一つでありました
が、合してから五百年で離れ、離れてから七十年で覇王となるものが出現い
- 3 -


たしましょう’と言った”とある。ある人は、“捶がすなわち老子だ”といい、
またある人は、“そうではない”というが、世間ではそのどちらが本当なのか
を知るものがない。老子は隠君子である。」


司馬遷はここで三人の「老子」をあげている。第一は名を李耳、字を髟と
する老子、第二は老棲子、第三は太史捶である。司馬遷の文章は後の二人に
ついて「ある人曰く」の語を用いており、念のために一言ふれただけである
ことははっきりしている。特に太史捶については、「ある人は、“捶がすなわ
ち老子だ”といい、またある人は、“そうではない”というが、世間ではその
どちらが本当なのかを知るものがない。」とする。ただし彼は基本的に、完全
ではないけれども「老子は楚の苦県〔河南省〕の厲郷、曲仁里の人である。」
という説、つまり名前は李耳、字は髟の老子説に傾いている。司馬遷が完全
に断定する言い方をしなかったために、老子とは一体どのような人間なのか
という問題に関して、疑問を抱く人々が代々あらわれ、長期にわたる論争が
生じることになる。


最初に老子についての疑問を提示したのは北魏の崔浩であった。その後、
唐代には韓愈が、孔子がかつて老子に師事したことを否定している。宋代に
も老子やその書について考証した者がおり(2)清代に入ると汪中(3)と崔述 (4)が老子は李耳ではなく孔子よりあとの太史であると強固に主張している。

今世紀初頭、胡適は『中国哲学史大綱』の中で老子を孔子の前に置き、老
子が春秋末期の人であることを確認し、この点で梁啓超から激烈なる反駁を
受けた 。(5)その後、張煦は今度は逆に梁啓超を全面的に批判、論駁した 。(6)  こうして老子の考証についての「疑古」と「信古」の論争が学術界において
長く広範囲に波及して繰り広げられる。


この論戦を再検証してみるとすぐにわかるが、「早期説」を堅持したもの、
すなわち老子を春秋末期、孔子と同時代かそれより少し前の李耳であると考
えたのは、胡適 (7)、唐蘭(8) 、郭沫若(9) 黄方剛 (10)、馬叙倫(11) 、高亨(12) 、詹剣峰(13)陳鼓応(14)たちである老子は戦国末期の人であるとするすなわち「晩期説」を主張したのは、梁啓超(15) 、銭穆(16) 、羅根澤 (17)、譚戒甫(18)などであ    
- 4 -


る。これ以外にも、歴史上、老子という人物はもともと存在しなかったとい
う説ももちろんある。こうした見方をもつ孫次舟は、老子は荘子学派の作り
上げた、実在しない寓言中の人物であるとする(19) 。学術の背景と知識の動機 
が極めて複雑なこの論争はおよそ十五年の長きにわたってつづけられ、古典
籍と思想史研究に従事する著名な学者はほとんどみんなこの重大な学術論争
に参加した。その著述は『古史辨』の第4冊と第6冊に収められている。


ただ、「疑古」と「信古」のあちら立てればこちらが立たぬというような二
項対立の模式から抜けだし、「釈古」という新しい学術視野に我々が入るなら
ば、前々から『史記』の中にすでに比較的はっきりと老子の存在が詳述され
ているのを見て取れるであろう。司馬遷は基本的には老子が老髟であること
を肯定しており、かつその年代はかつて彼に礼を問うたことのある孔子より
も若干早く、『老子』という著述があったと考えていた。先秦時代に記された
老子にかかわる内容としては『荘子』・『礼記・曾子問』・『呂氏春秋』・『論語
・述而』などに含まれる材料があり、『戦国策・魏策』と『戦国策・斉策』の
中でも老子について言及があり、『荀子・天論』にも老子の叙述がある。『韓
非子』にも「解老」「喩老」二篇のほか、三個所の引用がそれぞれ「六反」「難
三」と「内儲説」に見られる。以上の古典籍の中ではそれぞれ異なる面から
ごく簡単に老子について言及しているだけであるが、比較的完全な老子のイ
メージが共同で構築されている。それゆえ、老子はありもしない作り話など
である筈がなく、歴史の意図的なあるいは無意識の誤読の中からもうすでに
浮かび上がってきている。老子、姓は李、名は耳、字は髟、楚の国の人で、
春秋末期に生を享け(紀元前571年頃生まれ、紀元前551年に生まれた孔丘よ
りおよそ二十歳年長)、かつて東周王朝で図書を管理する役職に就き、孔丘は
かつて彼に礼をたずねたことがある。その後、彼は五千余言の『老子』を著
している。


老子その人が一体いつ頃の人なのか、はたまた実在したのかしないのかが
学術界の一大難問になっていたと言うのであれば、『老子』一書の作者が老子
であるかどうかという懸案も同様にこの二百年(二百年近く)中国学術史上
に議論百出の論争を引き起こしている。『老子』という書には少なくとも六つ
- 5 -


の名称がある。すなわち、『老子』、『道徳経』、『道経』、『徳経』、『徳道経』、『五
千言』等である。


『老子』の本来の姿はどのようであったのか? 一体何章あったのか?
どうして上下篇に分けられているのか? そしてさらに重要な問題は、『老
子』は李耳の手になるものなのかどうか? 春秋時代に成立したのか、それ
とも戦国時代に成立したのか? こうした問題は学術界に同様に激しい論争
を巻き起こした。


梁啓超は胡適『中国哲学史大綱』を評する際に「六つの証拠」(20)をあげて 
『老子』は戦国末期に出たものであると断言し、その後、顧頡剛(21)、銭穆、
張寿林(22)張季同(23)羅根澤(24)馮友蘭(25)熊偉(26)張西堂(26)等の学者の 論稿でも『老子』を戦国時代の作と認定している。彼らの論拠は思想の源流、
時代精神、文章の風格、流伝のスタイル、学者の引用、民俗習慣など域を出
ず、これらによって戦国時代の作と判断している。


梁啓超などは、老髟は謹直に礼を守る人であり、『五千言』中の礼に反する
精神とは矛盾するとして、『老子』は老子の作ではないと考えている。『老子』
の中で、老髟のことばとして「およそ、礼儀は忠誠と信義のうわべであり、
争乱の第一歩である」(第38章)とあるが、これは老子のことばとして似つか
わしくない。また『老子』の中には「万乗の主」「天下を取る」「仁義」など
のことばが見受けられるが、これらのことばは春秋時代の人が書けるもので
はなく戦国時代の用語であるとし、墨子や孟子の書物でも老子について何も
触れられていないことを指摘する。羅根澤は、墨子は「尚賢」を提起してお
り、老子は「不尚賢」を提唱しているが、「不尚賢」という否定の判断は「尚
賢」の前に出てくる筈がないと言う。銭穆は、「孔子・墨子は何れも浅近だが、
老子は深遠であり、孔子・墨子は何れも質実だが、老子は玄妙である。思想
の深化の過程から言えば、老子は孔子・墨子のあとに出たものに違いない。」
と考える。また別の学者は文体論から『老子』について考察を加え、馮友蘭
などは、『老子』は経典のスタイルを取るが、これは戦国時代の作品のスタイ
ルであり、春秋時期の「対話体」とは異なると言っている。顧頡剛は『老子』
を賦のスタイルであると見、これは戦国時代に新しく興った文体であるとし
- 6 -


ている。羅根澤と馮友蘭は個人の著述という点から、戦国以前には個人の著
述著作などは存在しなかったとする。上述のこれらの観点では老子の著作権
はほとんど剥奪されている。


しかし、以上の観点は多くの学者の反駁を受けた。ここではいちいち具体
的にあげないが、筆者の読書経験でも、哲学者の思想が若い頃と晩年の頃で
変わってきているケースは多く見られ、あるいは老子も礼の弊害を深く知っ
て、「知礼」から「反礼」へと変わっていったのかもしれない。戦国時代のこ
とばの問題に関しては、『老子』は伝承される過程で後世の人間に書き足され
た部分があったと言うほかない。これも名著の逃れることのできない宿命で
あろう(28)。尚賢は先秦時代の文献中においてひとり墨子の専売特許ではな
いし(29)、また、老子の思想が幽深だからといってその成立時期が孔子・
墨子のあとであるとも言い切れない。(おそくとも春秋時代には成立した『)易
経』を「幽深」でないと言いきれる人がいるだろうか。筆者は、『老子』のリズムや

韻律は哲理詩の「詩体」により近く、また『詩経』に近いようにも思われる(30) 。

『詩』三百篇の「詩体」は春秋初期にはすでに成立していたのに、 どうして『老子』は

戦国時代にならないと誕生できないと言えるのか? 戦国時代以前には個人の著作などなく個人の著述は『論語』からはじまるとする説は恣意的で根拠に乏しく、詳細に究めれば成立し得ないであろう(31)。


もちろん、『老子』は春秋末期に成立し老子本人の著作であるとする学者も
たくさんいる。たとえば胡適、唐蘭、郭沫若、呂思勉、高亨、詹剣峰、陳鼓
応 (32)などである。彼らは、『老子』は老髟 の手になるものであり、春秋末年、  
老子が関を出るときに記した「五千言」であるという見方を堅持している。
特に注目に値するのは呂思勉の説である。呂は『先秦学術概論』の中で、「『老
子』中の語義は大変古く、また女権が男権に優越するという考え方が全体の
主旋律となっており、その時代が早いことを十分に証明できる。」と言い、そ
の同じページの注で、「『老子』全体は三言と四言の韻語から構成され、とこ
ろどころ散文が間に挟まっているが、これはおそらく後世の人が付け加えた
ものであり、東周時代の散文とは明らかに異なる。これが一である。『老子』
全体には“男”“女”の字がなくただ“牝”“牡”と言っているだけであり、
- 7 -


この当時の言語は後世とは相当に異なっていることがわかる。これが二であ
る。」(33) とし、『老子』は南方の学ではなくて北方の学であると述べている。

 
これのほかにももう一つ別の考え方があり、それは『老子』は秦漢時代の
作品であるとするものである。たとえば顧頡剛などは、『老子』は呂不韋と同
時代の人間が書いたものであると考えている。劉節は『老子』を前漢文帝・
景帝の時代に成立したものであると見る。ただし、これらの見解は多くの学
者の賛同を得るところとはならなかった。


筆者は、『老子』の思想内容の一貫性と体系化、及びことばの緊密さから、
老子の門人によって編纂されたものではなく、春秋時代の老子の大きな構想
と深い思索が盛り込まれた個人の著作であると考える。戦国もしくは秦漢に
成立したという説は筆者の見るところ、論拠がまだ十分ではない。
1973年12月、馬王堆3号の漢代の墓から帛書『老子』の二種類の抄本が発
見された。世に言う甲本と乙本である(34) 。甲本の字体は篆書と隷書の中間ぐ 
らいであり、漢の高祖劉邦の「邦」という忌み名の字を避けていないので、
書写された年代は漢の高祖の治世よりも前であろう。一方、乙本の字体は隷
書すなわち今体であり、「邦」の忌み名を避けているが、「盈」(恵帝)と「恒」
(文帝)の字は使っているので、書写された年代は高祖の時代であったこと
がわかり、甲本とそう遠く離れてはいないようである。甲本と乙本は今より
二千年以上前のものであり、当時目にすることのできる最も古い『老子』の
抄本であった。そして『老子』帛書の発見により、『老子』が決して漢代の作
などではなく、少なくとも秦代より前にすでに流布していたことが証明され
たのである。


それから二十年後の1993年、湖北荊門郭店の戦国時代楚国の墓から大量の
竹簡(35)が出土したが、そのなかの竹簡『老子(郭店節抄本)(36)は二千三百 
年以上前のものであり、一番最初の祖本ではないものの現存最古の抄本であ
る。通行本とは異なることばや思想がたくさん見受けられ、学界が真剣に比
較と研究に取り組むに値するものであるが、それだけでなく『老子』の成立
年代を帛書『老子』よりも百年以上引き上げ、『老子』の成書「晩出説」をひ
っくりかえして『老子』の時代はすくなくとも戦国時代中期あるいはそれよ
- 8 -


りさらに早いものであることを証明した。


『史記』と先人の考証により、老子が春秋末期の人であり、彼が上下篇五
千言の『老子』の著作権を有していることは基本的に認めて差し支えないと
思われる。もちろん、この見方は、学術活動の成果を通じて検証を加えつづ
ける必要がある。一方で、広範囲にわたる「書証」(すなわち文献)と「物証」
(すなわち出土文物)の裏付けを得ることが望ましく、「証拠が無ければ人を
納得させられない、根拠のあることを言う、単独の証拠では十分に論を立て
られない」という原則を堅持し、歴史の本来の面目により近い理にかなった
証拠を得、そこから真実に基づいて復元していかなければならない。もう一
方でよいものを選び出し、先学の研究を踏まえて、相対的に整合性のある結
論を導き出していかなければならない。


以上より、『老子』は老髟の個人の著作であり、それは対話体ではなく哲学
詩もしくは詩的な哲学であり、その伝承の過程で後世の人間によって手を加
えられてはいるが、基本的には春秋時代の老髟の思想を反映したものである
と言えよう。

 


2 本体論と宇宙論


「道」は『老子』の中心概念であり最高の範疇である。老子の哲学思想は
「道」から完全無欠な智慧の哲学大系をたち上げている。
『老子』全81章中、37章が「道」について言及しており、あわせて72回出
てくる。使用頻度の最も高いキーワードである。その「道」は現実世界や人
間の生き方において具象化したときは「徳」とよばれ、「徳」は「道」の外に
あらわれたはたらきにほかならない。「徳」も全部で16章の中に登場する。
「道」と「徳」は老子の論述の核心となる範疇であり、それゆえ後世、これ
を以て書名としている(37)。


先秦哲学では人生論と政治論についてだけ語っているものがほとんどであ
るのに対し、老子の哲学は宇宙論・本体論からはじまりそこから人生論・政
治論と言語論にまで議論を展開していると一般的には言われるが、そこから
- 9 -


老子の哲学によって人類の生存と社会の問題についても考察し、こうした思
考を全宇宙の時空にまで拡大発展させていくことも可能である。それゆえ、
老子の「道」はその宇宙論と本体論がよってたつところの根本であるばかり
でなく、その認識論と弁証論とが展開できる基礎でもあり、そしてその人生
論と政治論、言語論と審美論の重要な理論的支柱でもあるのである。


「道」ということばは、老子より前の時代でもすでに広く使われていたが、
その主な意味は「道路」「道理」などであった。たとえば、『易経』、『国語』
と『左伝』の中の「道」はそのほとんどが人間の歩く道、もしくは思想・行
ないの則るべき道理のことを意味している。『左伝』の中には、「天道は幽遠、
人道は卑近」(昭公18年)という言い方がある。『老子』よりおそく成立した
『論語・述而』の中にも「正しい道を志し、収めた徳を根拠とし、仁により
そって、芸に遊ぶ」という表現がある。大多数が則るべき道筋を道とみなし
ており、かつ主として指しているのは「人道」である。


老子は本体論の斬新な論拠を呈示した。つまり世界の根源についての命題
を呈示したのである。彼は、「道」のほうが「天」と比べてより根源的であり、
「天」は「道」より派生したものだとした。すなわち、「形はないが、完全な
何ものかがあって、天と地より先に生まれた。それは音もなく、がらんどう
で、ただひとりで立ち、不変であり、あらゆるところをめぐりあるき、疲れ
ることがない。それは天下(万物)の母だといってよい。その真の名を我々
は知らない。(仮に)“道”というあざなをつける。真の名をしいてつけるな
らば、“大”というべきであろう。“大”とは逝ってしまうことであり、“逝く”
とは遠ざかることであり、“遠ざかる”とは“反ってくる”ことである。だか
ら“道”が大であるように、天も大、地も大、そして王もまた大である。こ
うして世界に四つの大であるものがあるが、王はその一つの位置を占める。
人は地を規範とし、地は天を規範とし、天は“道”を規範とし、“道”は“自
然”を規範とする。」(第25章)ここでは、道が天地万物の本源であることが
強調されている。老子はまた第4章で、「いくら汲み出しても、あらためてい
っぱいにする必要はない。それは底がなくて、万物の祖先のようだ。(そのな
かにあっては)すべての鋭さはにぶらされ、すべての紛れは解きほぐされ、
- 10 -


すべての激しいようすはなだめられ、すべての塵は(はらい除かれ)なめら
かになる。常にふかぶかと水をたたえた深い池のようだ。それは何ものの子
であるのか、我々は知らない。(だが、それは実質のとらえがたい)象として、
すがた
(太古の)帝王より以前から存在していた。」と述べ、道が万物の根源であり、
万物存在の根本であるとし、「上帝」や「神」の存在の根本であるとまで強調
している。


「道」をなすという本体論については、老子はさらにある「具体的な道」
から「哲学の道」へと道に形而上の超越を加えている。彼は「“道”が語り得
るものであれば、それは不変の“道”ではない。」(第1章)とし、「不変の道」
と具体的な「語り得る道」とを分け、そこから「道」に形而上の性格を賦与
している。この語り得ない不変の道は、相対を超越した一個の絶対本体であ
り、それは『左伝』、『国語』、『論語』などが説くところの先王の道、君子の
道、人生の道などとは異なる。なぜなら、これらはみな「語り得る道」であ
り、「人間の道」に属するものだからである。「不変の道」を宇宙万物の本体
論としていることからすれば存在の本体ということになるであろうし、世界
の生存論としては本源ということになる。老子のこの巧みな考え方は早期中
国哲学における精神の自覚ということができるであろう。


老子の「道」は、一般の事物とは異なる、有るようで無く、無いようで有
る形而上の存在と言うことができる。それゆえ、彼は第21章で「“道”という
ものは実におぼろげで、とらえにくい。とらえにくくておぼろげではあるが、
そのなかには象がひそむ。おぼろげであり、とらえにくいが、そのなかに物
(実体)がある。影のようで薄暗いが、そのなかに精がある。その精は何よ
りも純粋で、そのなかに信(確証)がある。」と言う。また、第14章では「目
をこらしても見えないから、すべり抜けるものとよばれ、耳をすましても聞
こえないから、かぼそいものとよばれ、手でさわってもつかめないから、最
も微小なものとよばれる。これら三つのことは、それ以上つきつめようがな
く、まざり合って一つになっているのだ。それが上にあっても明るさはなく、
それが下にあっても暗さはない。次々と連続して名状しようもなく、何物も
ないところへもどってゆく。それらは状なき状、物とは見えない象とよば
- 11 -


れ、はっきりとはしないそれらしきものとよばれる。それに正面から向かっ
ていっても顔が見えないし、あとについていっても後ろ姿も見えない。だが、
いにしえの“道”をしっかり握れば、いま現にあるものを制御し、いにしえ
の(すなわち)すべてのはじまり(にあったもの)を知ることができる。こ
れが“道”の 紀 とよばれる。」と述べる。なかに象がひそみ、なかに物(実
体)がありながら、状なき状、物とは見えない象というこの物質的実体は人
間の意志では動かすことのできない永遠の存在であり、ありとあらゆる所を
運行し、永久に停止することのないものでもあるため、これを「道」と命名
するしかないのである。


こういった「道」の本体論に関する考察は、中国の「五行論」あるいは「元
素説」などのほうがより深いものになっている。論理学の本体論における
「道」の意味から言えば、それは宇宙生成論と関連性があるだけでなく、そ
れ自身にも特徴がそなわっている。それは本体的な第一存在の「道」を、こ
とばで表現できないということによって制限を加えられたものであるため、
この本体に関してはいかなる規定性ももたず、ただ純粋無な思惟の立ち上が
るはじめの状態(初期の状態)であるとみなしている。「道」こそは純粋存在
であり、分析不能な純粋存在もしくは純粋無である。それは普遍的規律の先
在性を強調し、普遍的規律を最高の実体としている。


老子は宇宙生成の過程について相当深く思索し、後世の人々の議論を呼び
起こすような言説を残している。「“道”は“一”を生み出す。“一”から二つ
(のもの)が生まれ、二つ(のもの)から三つ(のもの)が生まれ、三つ(の
もの)から万物が生まれる。すべての生物は背を陰 にして陽をかかえるよ
うにする。そして(陰と陽の二つの気の)まじりあった深い気によって(万
物の)調和(平衡)ができる。」(第42章) 張岱年先生の見方によれば、「道」
は「一」の前にあり、「一」は天地が分かれる前の総体であり、「二」はすでに分かれた

天と地であり、「三」は陰陽と衝気であるという(38) 。もちろん、そ の意味を

理解するとき、我々は一、二、三がここで具体的にさす事物をいちいち対照して

比べる必要はないであろう。なぜなら大部分の不一致はみなここから生じているから

である。

- 12 -

 

 

 

 

実はここでの「道」は抽象的な絶対であり、一切の存在の根源であり、自
然界中の最初の原動力であり、創造力である。ここでいうところの「一、二、
三」は「道」の万物創生の過程を形容しており、それは最も抽象的な本体か
ら絶えず物質世界へと下りてきて具体的な形をとり、万物を創生する。 これ
こそがまさしく『老子』第40章でいう「天下のあらゆる物は“有”から生ま
れる。“有”そのものは“無”から生まれる」であり、「道」から万物が生ま
れるというのは、「少」から「多」へのプロセスであり、万物は無からのみ生
まれると観照している。「無」は「道」であり、「道」から「有」が生まれ得
るのであるから、「道」こそは「無」と「有」の統一ということになる。老子
は第51章で「“道”が(すべてを)生み出し、“徳”がそれらを養い、物それ
ぞれに形を与え、環境に応じて成熟させた。それゆえに、あらゆる生物はす
べて“道”をうやまい、“徳”をとうとぶものである。」とするが、これは道
が万物を創生したあと、万物を成長させ、栄養を与えつづけていることを述
べており、だからこそ道が宇宙万物を生み育んだのだと言う。


もちろん、老子の「道」は意志をもった人格としての「神」もしくは「上
帝」ではなく、「道」の本性は無為自然にこそある。「道」は万物に君臨し万
物を治めるのではなく、「何もしないことによってこそ、すべてのことがなさ
れる」のである。天下万物が生み出され形づくられて以後の、万物自身の運
動・変化も同じように宇宙生成・化育の重要な一側面であった。
以上より、老子の宇宙論は道徳本体論の上に立つもので、道が宇宙の生成
と進展を左右していると筆者は考える。道の本性・特性は宇宙の形成と進展
の根本的な属性を決定しているのである。


3 認識論と弁証論


中国哲学のかぎは「聞道」であり、西洋哲学の要諦は「求知」にあるとよ
く言われる。
だが、老子の「聞道」の本体論と彼の「求知」つまり認識論との関係は相
当緊密に一つに結びついている。老子の認識論は自然や宇宙の規律について
- 13 -


の認識や概括というだけでなく、その本当の立脚点は社会闘争と人生経験の
方面に置かれている。その認識論は「静観」、「玄鑑」、「知常」、「棄智」など
いくつかの面において具体的に表現されている。


老子は具体的な“物”から抽象的な“道”を認識すること、そしてまた抽
象的な“道”から普遍的な“物”を客観的に観察することを特に重視する。
彼は直観的に道の本体を把握するこのやり方を「観」とよんでいる。『老子』
第54章では「それゆえに、あるひとりの身については、その人の身(の修め
方)によって見て取れ、一つの村については、その村(における修め方)に
よって見て取れ、一つの国については、その国(における修め方)によって
見て取れ、天下全体については、天下(における修め方)によって見て取れ
るのである。私は何によって天下がそのようであると知るか。このこと(以
上のこと)によってである。」と述べ、直観の認識活動中における作用を強調
し、客体のはばと深さを上手く認識するよう客体に要求する。身を観、家を
観、郷を身、国を観、天下を観て天下を認識するという考察の角度から、彼
の認識論の論理を展開する方式を見て取ることができる。ただ、老子が直観
的な方式によって「道」を把握することを強調する時、ある種の神秘的な色
彩を帯びてくることは否めない。老子は第52章で、「穴(耳や目などの感覚器
官)をふさぎ、門(理知のはたらき)を閉じるならば、一生の終わりまでく
たびれることはない。」と言い、これを自己の絶対真理を探究する認識の方法
としており、そこで感性の認識と理性の認識とが対立しはじめるであろうか
ら、以下のような「戸口から一歩も出ないで、天下のすべてを知り、窓の外
をのぞくこともしないで、天の道をすべて知る。出てゆくことが遠くなれば
なるほど、知ることはいっそう少なくなる。それゆえに、聖人は出かけてい
かないでも知り、見ないでもその名をはっきりいい、何の行動もしないで万
事を成しとげる。」という言説が出てくる。これは老子が感性の認識を否定・
放棄し理性絶対論に到達したということであろう。


「玄鑑」は老子の認識論の重要な原則である。帛書乙本『老子』第11章で
は、「神秘的な幻 想をぬぐい去って、くもりがないようにできるか。」(王弼本
ヴィジョン
と河上公本ではいずれも「滌除玄覽」につくる)。高亨の考証に曰わく、「“覧”
- 14 -


は“鑑”とも読め、昔は“覧”と“鑑”とは通用していた。………玄鑑とは、
心の中の光明を形而上の鏡として事物をよく照察するということであり、ゆ
えにこれを“玄覧”と称する。」(39) 玄鑑とはすなわち、人間の心の奥底にあ 
り、事物に対し子細な観察を加え認識させる形而上の心の鏡のことである。
それは一般的事物の感性の認識を超越しており、論理的推理の認識でもなく、
生命体験にもとづいた悟りと観照である。特にこの幽玄で、影も形もなく名
前をつけようもない「道」という認識対象に対しては、生命の「鏡」の体験
を通してでしか把握できないのであり、それゆえ、主体の心が静かで落ち着
いた境地にあるときに、総体的な「道」を直観的に体得し理解するのである。
この点に関し、さらに一歩踏み込んで発展させたのが荘子の「心斎」であり、
これは心の中の欲望を排して「虚静」の状態に至り、認識者自身にあらゆる
利己的な考えを捨てさせ、「道」について直観的に体得・理解させることであ
り、これこそが「玄鑑」である。


「知常」(常を知る)とは、「一時のために永劫を放棄する」ことへの反撥
である。『老子』第16章の中で老子は「空虚(“虚”)に向かって進めるかぎり
進み、静寂(“静”)を一心に守る。そうすればあらゆる生物はどれもこれも
さかんにのびる。私は、それらがどこへかえってゆくのかをゆっくりながめ
る。あらゆる生物はいかに茂り栄えても、それらがはえた根もとにもどって
しまうのだ。根もとにもどること、それが静寂とよばれ、運命に従うことと
いわれる。運命に従うことが“常”(いつもそうであること)とよばれる。“常”
を知ることは“明”(明察)とよばれる。“常”を知らなければ、めくらめっ
ぽうにやってしまい、災いにあうこととなる。“常”を知る人は、すべてを包
み容れること(“容”)ができる。“容”であることは、そのまま偏見のないこ
と(“公”)であり、“公”であることは、そのまま王であることであり、王で
あることは天であることであり、天であることは“道”であることである。


「道」は永久なのであるから、それを保有する人も永久である。その人の身
体に終わりがくるまで、危険はない。(40)」 と述べ、そのなかでも「“常”を知 
ることは“明”(明察)とよばれる。」と重点的に強調している。第55章でも
「この和の気を知ることが“永久であるもの”との一致とよばれ、“永久であ
- 15 -


るもの”を知ることが“明察”とよばれる。」と同じように強調している。「常」
は、「恒」、「静」と意味が近く、一切の変化中の不変の法則である。『老子』
には二度、「“常”を知ることは“明”(明察)とよばれる。」という句が出て
きており、「常」を知らなければ、めくらめっぽうにやるしかなく、必然的に
不幸な結果を迎えることになると強調している。言い換えれば、調和のとれ
た道理を知ることが「常」であり、その「常」を知ることが「明」だという
ことである。「常」の意は「恒」に近く、「静」とも近いということは前にも
述べたが、老子は静かに観照する認識論を強調し、欲望と偏見から抜け出し
自然の道と人の生きる道を知ることを要求しており、このようにしてはじめ
て運命に従い根本にもどることができるのであり、これこそが「明」すなわ
ち「大なる智大なる明」なのだと言う。「常の徳」を「常の道」の運行過程中
に置いて体得・認識すると言うのが、老子の重要な思想の一つである。


最後に、「棄智」についての考えであるが、老子は「知」を大変重要視して
おり、『老子』の中で、知を論じている章が全部で27ある。ただ、老子の言わ
んとするところは、「英知をなくしてしまい知識をなげすてよ。そうすれば人
民の利益は百倍にもなるであろう。」(第19章)という点の強調にある。たと
えば、第3章では「それゆえに、聖人の統治は、人民の心をむなしくするこ
とによって、人民の腹を満たしてやり、彼らの志を弱めることによって彼ら
の骨を強固にしてやる。いつも人民が知識もなく欲望もない状態にさせ、知
識をもつものがいたとしても、彼(聖人)はあえて行動しないようにさせる。
彼の行動のない活動を通して、すべてのことがうまく規制されるのである。」
と述べ、第65章では「“道”を行なうことにすぐれた昔の人は、“道”によって人民

の智慧を輝かせたのではなかった。それによって人民を無知にしようとしたの

である。人民を治めることがむずかしいのは、彼らに智慧が多すぎるからである。

だから、一国を治めるのに智慧をもってすることは、国の損失になるであろう。

智慧によらずして国を治めることは、国にとって幸いであろう。」とするほか、

第18章の「大いなる“道”が衰えたとき、仁愛と道義の説がおこった。人のさかしら

と知識がたちあらわれたときに、大いなる偽りがはじまった。」、第57章の「こざかしい技術者が多ければ多いほど、見な
- 16 -


れない品物がますますできてくる。」などがある。これらの言説から、確かに
老子には知を棄て知から遠ざかる傾向があるのがわかる。しかし、単純にそ
れを愚民政策とみなしてはならない。度を超して知力を弄び、悪巧みをはた
らかせ、策略を弄し、そして陰険狡猾ないわゆる「智謀」を巡らす当時の世
の中に対しての反感がそこにあることを読みとらなくてはならない。棄智を
提起し、本来の心に回帰し安寧で秩序ある本来の生活と社会秩序に立ち戻っ
て、覇を競い智を好む行ないがもたらすマイナスの作用を取り除くことを老
子は唱導したのである。


老子はよく言われるような、君主のために愚民政策を立案した陰謀家など
ではない。なぜかと言えば、『老子』の中には、彼の智に対する心からの賛美、
あるいは智のプラスの効果に対する詳しい記述があるからである。たとえば
第32章では、「とどまるべきときを知ることにより、危険から免れることがで
きる。」、第33章では、「他人を了解するものが智慧のある人であり、自己を了
解するものが明察のある人である。」、第28章には雄さの力を知りつつ雌さの
ままにとどまり、白の輝かしさを知りつつ、黒の知られないままにとどまり、
栄誉のとうとさを知りつつ汚辱にとどまれば、天下の何ものをも受け入れる
谿のようなものとなるという説を述べている。特に第53章「私にわずかでも
知識があったならば大きな道を歩けるが、斜めのわき道に迷いこみはしない
かと恐れるであろう。」は、もし自分にほんの少しでも知識があれば大きな道
を歩くことができる、ただわき道に迷い込むのが心配だということで、老子
が知識と道徳のプラスの効果について高く評価していることがわかる。この
ほか、第56章では「知っているものはしゃべらない。しゃべるものは知って
いない。」、第70章では「私のことばは大変理解しやすく、行ないやすい。そ
れなのに天下のだれにも理解できるものではなく、行なうことができるもの
でもない。すべてことばに 宗 があり、物事をなすには、君(主宰者)がある
ものだ。人々が無知だからこそ、私は理解されないのである。私を理解する
ものはまれであるが、私に倣うものはとうとばれる。」、第71章では「知って
いても十分には知っていないとみずから考えることが最上である。知らない
の知っているとすることは欠点である。」と述べ、第72章では「それゆえに聖
- 17 -


人は自らを知るが見せびらかさない。自らを愛するが自らをもちあげようと
はしない。まことにあのこと(見せびらかすことなど)を投げやり、このこ
と(自らを知ることなど)をとるのだ。」とする。


老子がよく言われるように、どこまでも智に反対しどこまでも智を棄て智
から遠ざかろうとしていたのでないということは見やすいであろう。彼が反
対していたのは、本当の道からははずれている小智、道を掌の上で弄ぶ邪悪
な智だけであり、人心や問道と関わりのある耳目聡明な本当の大智を彼は強
調している。以上のことから、道を追求する知識だけが本当の知識であり、
自分の欠点を知り自分の限界を知悉している知識をはじめて明にして智なる
知識とよぶことができ、それゆえに老子は「永久であるものを知ることが明
察である」と言うのだと筆者は考える。


全体から見ると、老子は行き過ぎて知を追求することのプラスとマイナス
の効果について言及しているが、同時に、理性の直観-「玄鑑」及び道の本
体についての把握-「知常」を強調し、知の根本は、人の身の修め方を知り、
家族の修め方を知り、村の修め方を知り、国の修め方を知り、天下の修め方
を知ることにあると言う。同時に彼は知の可能性及びその限界性を認識し、
度を超して知識を追い求め、知識にひたすら耽溺している戯れの中から生ず
る弊害を暴き出す。そして真の知を得るには「玄鑑」と「知常」を通じてで
なければならず、それによって「道」「徳」の体得・認識に到達できることを
強調している。認識論がまだ発達していなかった先秦時代にあって、このよ
うに深奥なる認識を獲得したということはまことにとうとぶべきことであろ
う。


老子の思想に一連の弁証論の要素がそなわっていることは注意を引く。彼
の強調するところの二元対立と、相反するものにも同一性があるという矛盾
した普遍的観念は、中国思惟論の中で思想の根本的な原則を確立し、後世、『荀
子』、『易伝』などにもこの老子の「中」をたっとぶ弁証思想は受け継がれ、
それらは総体の生命の調和と統一の維持に注意を払い、矛盾が極端化して物
事が悪いほうへ変わることを避けている。


老子の弁証法思想は、物事の矛盾が自然社会と人生の中に存在する普遍現
- 18 -


象であることを強調し、また事物自身の中にほかのものが存在しており、い
かなる事物も正と反、肯定と否定の対立が一つに統合されたものであると言
う。たとえば、有と無、生と死、長と短、高と下、多と少、大と小、前と後、
遠と近、軽と重、静と躁、難と易、黒と白、雌と雄、正と反、同と異、真と
偽、美と醜、善と悪、強と弱、福と禍、栄と辱、愚と智、吉と凶、是と非、
貴と賤、治と乱、剛と柔、勝と敗、清と濁などの矛盾は、互いに対立しあっ
ているだけでなく互いに関わりがあり、矛盾するだけでなく互いに寄りかか
り支えあっており、互いに相手を生み出しながら互いに対立し互いに調子を
あわせていくという関係を形づくっている。


同時にこれらの事物は完全無欠の境地に到達することはできない。なぜな
ら、「明らかな道ははっきり見えず、前へ進むべき道は、あとへもどるように
見え、平坦な道は起伏が多いように見える。最上の徳は深い谷のようであり、
あまりにも白すぎるものは汚されたようで黒ずんでおり、広大な徳は欠けた
ところがあるように見える。健やかでたくましい“徳”は怠けものに見え、
質朴で純粋なものは色あせて見える。大いなる方形には四隅がなく、大いな
る容器はできあがるのがおそく、大いなる音楽はかすかな響きしかしないし、
大いなる“ 象 ”にはこれという形状がない。“道”はかくれたもので名がない
からであ」り(第41章)、「最もまっすぐなものは曲がっているようにみえ、
最も技量のある人は不器用にみえ、最も雄弁な人は口ごもっているようにみ
える。」(第45章)からである。これは明の中に暗が含まれ、進むことのうち
に退くことが隠されており、平坦な道は険阻を意味し、崇高な徳は低い谷の
ようであり、広大なる徳は欠けたところがあるように見え、最もきよらかな
白はかえって真っ黒に見え、最も正方形であるものにはかえって角がないよ
うであり、大いなる音楽はかえって音がないようであり、大いなるかたちは
かえってその姿が目に見えず、道は隠微にして名称がないものだということ
を言っている。それゆえ、老子の弁証法思想においては、禍は福と連れだっ
ておとずれ、負けは勝ちと関わりがあり、剛と柔とは互いに補いあっており、
絶対的な勝敗、剛柔、損益というものはなく、相反する二つの面をもたない
事物は存在しない。なぜなら、「暴風は朝じゅう吹きつづけることはなく、激
- 19 -


しい雨が一日じゅう降りつづくこともない。だれが風や雨をおこすのか。そ
れは天と地である。天と地でさえ、風や雨をいつまでもつづけ得ないとすれ
ば、まして人のことばはそうではないか。」(第23章)とあるように、矛盾は
あらゆる事物の中に普遍的に存在することになっているからである。この点
をわきまえていれば、表面的な現象と一面的な感覚によってだまされなくな
るであろうし、事物の転化に対して冷静な認識を維持できる。


特に大切なのは、老子が「あともどりするのが“道”の動き方である。弱
さが“道”のはたらきである。」(第40章)と述べ、否定的な要素の重要性を
最初に強調したことである。そしてそこからさらに進んでその否定的要素で
ある「反」を哲学の一つの重要な範疇に昇華させている。老子はさらに「神
秘の“徳”は奥深くて遠くまでとどく。しかも物といっしょにかえってくる。
そのときこそ完全な随順となる。」(第65章)、「正しいことばは、真実に反す
るように聞こえるものである。」(第78章)と述べ、このようにして「あとも
どりする」、すなわち否定的要素を道自体を動かす重要な力とし、高い基点に
まで持ち上げている。またこれは、人々に消極的な面との関わりから積極的
な面を見、二元対立の中で周縁に近いほうの一辺を重視するよう老子が要求
しているのだとも言えよう。なぜなら発展途上の消極的要素の把握は積極的
要素の肯定よりもさらに大切だからであるが、この点は世の中からほとんど
無視されてきた。


老子は「天下すべての人がみな、美を美として認めること、そこから悪さ
の観念が出てくる。同様に善を善として認めること、そこから不善(の観念)
が出てくるのだ。」(第2章)と言い、美と善という肯定的な要素はその相反
する否定的要素-醜と悪との比較の過程においてはじめてはっきり現れ得る
のだということを強調する。まさに相反する二面があることにより、肯定的
要素は己を大きく広げて発展させる条件を得るのである。それゆえに老子は、
「ねじ曲げられるものが完全に残る。まっすぐであるためには、身をかがめ
よ。いっぱいになるには、くぼみがあるべきだ。衣服のぼろぼろになったの
が、新しくなるのだ。少ししかもたない人は、もっと多く得るだろうし、た
くさんもつ人は、思いなやむばかりだ。」(第22章)とする。「ねじまがってい
- 20 -


る」、「まっすぐでない」、「くぼみがある」、「ぼろぼろ」、「少ない」、「思いな
やむ」というこれらマイナス面のものが存在するがゆえに、「全うする」、「ま
っすぐである」、「満ちる」、「新しい」、「得る」、「多い」、がきわだち、姿をあ
たわすことができるのである。さらに第7章では「それゆえに聖人は人の背
後に身をおきながら、実はいつも前方にいる。外側に身をおいているが、実
はいつもそこに在る。」と言うが、これはつまり積極的に自らを後ろに置くこ
とによって結果的には前の場所を占め、危機に直面したときには我が身を度
外視してはじめて己を全うできる、ということである。だから、「彼は個人的
なことのために力を出さない。まさにそのために、彼の個人的なことがなし
とげられるのではないか。」(第7章)となる。彼は利己的でないがために、
かえって彼自身の目的を達成するのである。消極的要素はある一定の条件下
では積極的な要素よりもさらに重要であるという弁証法の道理をここでは説
いているのである。


もちろん、「反」には否定的要素以外にもう一つ別の字義がある。銭鍾書は、
「『老子』で“反”の文字を用いる際、字に別々の意味をもたせると同時に意
味を統一させており、これはアウフヘーベンと比肩するに足る。……『老子』
の“反”は二つの意味が融和して一つになる、つまり正という積極的な面と
反という消極的な面とが合わさっており、……ゆえに返るのであり、反は消
極的な意味では違反するという意味であり、正は積極的な意味ではもどると
いう意味で用いられている。」と述べている 。「反」のもう一つの意味が「返 (41)
る」、つまり永劫回帰の意味であることは見やすいであろう。第25章に、「形
はないが、完全な何ものかがあって、天と地より先に生まれた。………その
真の名を我々は知らない。仮に“道”というあざなをつける。真の名をしい
てつけるならば、“大”というべきであろう。“大”とは逝ってしまうことで
あり、“逝く”とは遠ざかることであり、“遠ざかる”とは“反ってくる”こ
とである。」とあるが、ここでの大、逝、遠はいずれももどる、帰るの意味で
ある。一般的に言って、発展過程における低いレベルの事物の対極への転化
は肯定から否定への転向であるが、高いレベルの事物の対極への転化は否定
の否定である。このような原始に回帰する否定の否定はぐるぐる循環したり

- 20 -

螺旋状にゆるやかに発展・変化したりする。


いわゆる「あともどりするのが“道”の動き方」とは、一種の螺旋状のゆ
るやかな発展、つまり対極へと転化し本源へ回帰していくことであると言え
よう。この「あともどりするのが“道”の動き方」という否定的要素の転化
のほかに、老子は転化の過程の条件、すなわち量的変化から質的変化という
ことを強調している。老子は言う、「むずかしいことに対しては、それがまだ
たやすいうちに処理し、大きなことに対しては、それがまだ小さいうちに処
理せよ。天下の困難な仕事は、たやすいことのなかにそのはじまりがあり、
大きな仕事は、小さなことのなかにはじまりがある。」(第63章)、「ひとかか
えくらいの大木でも毛すじほどの芽からはえるのだし、九重の高さの築山で
もひと盛りの土から築きはじめられるし、千里の遠方への旅行も、足もとか
らふみ出されるのだ。」(第64章)。ここで強調しているのは、事物は突然転化
するのではなく、いかなる事物もその対極へ転向するのであり、肯定的なプ
ラスの面から否定的なマイナスの面への転化には必ずある一つの過程もしく
はある一定の条件があるということである。量的変化が事物の発展のピーク
に達したとき、それは急激に「有」から「無」へと転化する、すなわち「 剣
の刃に焼きを入れて鋭くしてもいつまでもそのまま鈍らないわけではない。
黄金と宝玉が、座敷に充満していても、それらを守りつづけることはできな
い。」(第9章)のである。これは、ひとりの人間の所有する富が自己のピー
クに達したとき(有)、無一物の状態(無)へと転化するだろうということで
あり、つまりは徹底的な自己否定である。


筆者の見るところ、老子の弁証法は、事態が最高点乃至は事物の臨界点に
到達することを防ぎ、臨界点より低い安全な状態を長く維持しつづけること
を強調するが、その実質は「盈」を防ぎ「満」を戒めるということである。
こうすれば、事物の対極への転化をできるかぎり阻止できる。「あまりにも多
く貯蔵することは必ず大きな損失に導かれる。」というのは裏を返せば「どの
程度で満足すべきかを知れば、屈辱を免れ、どこでとどまるべきかを知れば、
危険に出あわない。そうすればいつまでももちこたえられる。」(第44章)と
いうことであり、このような方法を通じ自分を弱い立場において柔性を守り
- 22 -


つづけ、臨界点には到達しない状態のまま、対極へと転化する可能性を限り
なくあと延ばしにしているのである。老子の弁証法は、彼が道を悟ったあと
に得た、個人の直観智慧が神秘的に飛躍を遂げたものであると言うことがで
きよう。


4 人生論と政治論


『老子』は『徳経』ともよばれる。「徳」は十六の章、計四十数個所に出て
きており(各版本で若干違いがある)、「道」と同じような重要性をもってい
ると言えよう。


「道」と「徳」は老子の思想のなかでどのような関わりをもっているのか。
研究者には種々の見解があるが、筆者の考えでは、「徳」とは「道」が具体化
して姿をあらわしたものであり、道が人生と社会の上に延伸してきた形態で
ある。道を世界、宇宙全体の一つの規律であるとするなら、徳は主として人
生論と政治論の中に含まれるものである。老子は人生論(個人の「修徳」)と
社会政治論(統治の「方術」)を哲学の高みに引き上げ把握していたと言って
差し支えあるまい。


老子は人生論の中で、まず「徳」を「高い徳(上徳)」と「低い徳(下徳)」
に分けている。老子は言う、「高い“徳”のある人は、“徳”を自慢すること
がない。だから“徳”を保持するのである。低い“徳”のある人は、“徳”の
みせかけをはらいのけることができない。だから、本当は“徳”がないのだ。
高い“徳”のある人は、何の行動もしないでしかも何事もなされないという
ことはない。低い“徳”の人は、何か行動しても、しかもなされないことが
ある。高い仁愛の人は行動をしても、動機があってするのではない。高い道
義の人は、行動するが、動機があってするのである。」(第38章) ここでは、
「徳」は「道」を体現しており、ある種の自然な徳性で、赤ん坊のように純
朴な先天的性質である。「高い徳」は「道」と「徳」の両方面を指し、すぐれ
た人徳がそなわり自然体で生きる人が生まれつきもっているものである。「低
い徳」は「高い徳」の対極にあるもので、主に仁、義、礼などの徳性を指す。
- 23 -


低い徳は人為的な下心の産物であり、虚偽を生じやすいが、高い徳は自然な
内心の流露であり、自然と同一である。そこから重要な問題となってくるの
は、作り出した人為の痕跡のある「低い徳」が人為の痕跡のない自然な高い
徳へと転化する点である。


どのようにすれば低い徳を高い徳にかえることができるのか。それには「徳
を修める」ことが必要とされる。老子は言う、「“道”がすべてを生み出し、“徳”
がそれらを養い、物それぞれに形を与え、環境に応じて成熟させた。それゆ
えに、あらゆる生物はすべて“道”をうやまい、“徳”をとうとぶものである。
だが、“道”と“徳”がうやまいとうとばれるのは、何か権威のあるものから
任命されたからではなくて、それは常に自ずから然なのである。こうして、
“道”は生み出し、徳は養う。そして生長させ育てあげ、凝縮させ濃厚にし、
食物を与えかばってやる。生み出しても、自分のものだと主張せず、はたら
かせても、それにもたれかからず、その長となっても、それらをあやつるこ
とをしない。これが“神秘の徳”とよばれる」(第51章) 「道がすべてを生
み出す」「徳がそれらを養う」という、自然の規律の順守と後天的な自己修養
によってできるものを同じように重要視し、「神秘の徳」、すなわち幽玄微妙
でことばにできない麗しき徳の境地に至るのである。彼は第54章でさらにも
っと明確に指摘している。「そのやり方でひとりの身において完全に修めれば
“道”の 徳(その効果)はまちがいなくあらわれ、一家族において修めれば、
その徳はあり余るほどであり、一つの村において修めれば、その徳は永続す
るし、一国において修めれば、その徳は大きくさかんであり、天下において
修めれば、その徳は広くゆきわたるだろう。」 「修めること」、すなわちひ
とりの身において修め、一家族において修め、一つの村において修め、一国
において修め、天下において修めることを老子が繰り返し強調し、個々のま
ことの徳に世界的普遍性をもたせ、徳を修めることによって道に近づけよう
としていることが見て取れる。


この低い徳を高い徳へと変化させるやり方とは自らを「柔和な状態に置く」
ことである。言い方をかえれば、「“徳”を豊かにもつ人は、生まれたばかり
の赤子に比べられる。」ようだということである。赤ん坊は「和の気が最高だ
- 24 -


である。」(第55章)から「太和」の境地、すなわち「変わることのない“徳”
が満ち足りて、その人はまだ削られる前の樸の状態にもう一度帰った」(第
28章)ような境地にいる。つまりは乳飲み子のようにか弱くたよりない状態
にあるということである。ここで老子は道の実際的な応用と道の表現形式に
ついてはっきりと指摘している。「處柔」あるいは「貴柔」あるいは「尚柔」
は事実上、老子の道と徳の思想体系の根本なのである。「柔弱」はまさにある
人が将来性に富み活気に満ちている一つの象徴であり、一方堅さや強さは死
の予兆である。老子は言う、「人が生まれるときには柔らかで弱々しく、死ぬ
ときには堅くてこわばっている。草や木が生きている間は柔らかでしなやか
であり、死んだときは、くだけやすくかわいている。だから、堅くてこわば
っているのは死の仲間であり、柔らかで弱々しいのが生の仲間である。それ
ゆえに武器があまりに強ければ勝つことがないであろうし、強い質の木は折
れる。強くて大きなもの(たとえば木の幹)は下にあり、柔らかで弱いもの
(たとえば枝や葉)が高いところにある。」(第76章) このような柔弱はそ
れがある一定の条件下では転化して強いものに取って代わり得ることがここ
では予示されている。なぜなら、柔弱はその相反するものを自身に含んでお
り、柔らかいものは潜在的な堅いものであり、おそらく発展して堅いものと
なるか、最後には堅いものにとって代わるからで、それゆえに「最もしなや
かなもの」こそが「最も堅いもの」なのである。このような蓋然性を必然性
にまで押し進めると、「天下において水ほど柔らかくしなやかなものはない。
しかしそれが堅く手ごわいものを攻撃すると、それに勝てるものはない。ほ
かにその代わりになるものがないからである。しなやかなものが手ごわいも
のを負かし、柔らかいものが堅いものを負かすことは、すべての人が知って
いることであるが、これを実行できる人はいない。」(第78章)ということな
のであり、「あらゆる物のなかで最もしなやかなもの(水)が、あらゆる物の
なかで最も堅いものを(無視して)突進する。」(第43章)柔弱が剛強に勝つ
かぎは、「處柔」の謙虚にへりくだる姿勢がもうすでに道に通じ、ひいては道
と同化しているということにある。


老子の人生論は高い徳を褒め称え、赤子のように「柔和な状態に自らを置
- 25 -


く」ことを説くほかに、さらに「三つの宝」を強調して言う。「私には三つの
宝がある。それらを離さず大切にしている。第一は慈愛、第二は倹約、第三
は天下の人々の先頭に立たないことである。慈愛があるから勇気を出すこと
ができ、倹約するからいくらでも施しができ、天下の人の先に立たないから
あらゆる官の長となれるのである。ところが、慈愛をさしおいて武勇であろ
うとし、倹約をさしおいて広く施そうとし、あとにつくことをやめて先に立
とうとしても、死があるだけだ。そもそも慈愛がある人は、それによって戦
っては勝利を収め、守っては攻略されがたい。天がその国を救おうとすれば
慈愛をもって保護する。」(第67章) 老子はここで人生の精妙なものを人生
の三つの宝とよんでいる。つまり、彼は人生の徳を修め、道を成す過程にお
いて、慈愛心、慈悲心を非常に重く見、慈愛を自己、他者や天地万物にまで
押し広めている。老子は常に「善であるものを私(聖人)は善しとするが、
善でないものも私はやはり善しとする。」(第49章)ということを言い、また、
「聖人はいつも人々を救い出すことにおいてすぐれている。だから何人をも
みすてない。いつも物を救い出すことにおいてすぐれている。だから、何物
をもみすてない。」(第27章)と言っているように、広大な慈愛の心を天下に
あまねくゆきわたらせ、人の命を尊重することで自身の完全無欠の徳性を完
成させることを非常に重視している。


「倹」は以下のような独特な視角を提示してくれる。「物をあまりにも愛惜
することは必ず過度の浪費につながりあまりにも多く貯蔵することは、必ず
巨大な損失に導かれる。どの程度で満足すべきかを知れば、屈辱を免れ、ど
こでとどまるべきかを知れば、屈辱を免れ、どこでとどまるべきかを知れば、
危険に出あわない。そうすればいつまでももちこたえられる。」(第44章)、「聖
人は過度な行為を避け、浪費を避け、傲慢になることを避ける。」(第29章)、
「素絹を外につけ、樸を手にさせるのだ。そうすれば利己心は少なくなり、
欲望はとぼしくなるであろう。」(第50章) 言わんとするところは、満足す
ることを知って欲望を減らすようにしないといけないと人々に注意を促す点
にある。こうすることによってはじめて正常で倹約的な生活を営むことがで
きるのであり、物欲をひたすら追求するだけでは難しい。なぜなら、贅沢三
- 26 -


昧の酒食は腸を断ちきる薬であり、淫らな美女は命を伐ちきる斧かもしれな
いからである。しかし倹と廉を宝とすれば人生を恒久的に調和のとれた「和」
の状態に保つことができる。


「天下の人々の先頭に立たない」は世俗の道理に背馳するようであるが、
老子は人為人工や先を争うようなやり方すべてに反対する。彼は、「つまさき
で立つものは立ち尽くすことができない。大股であるくものは長くあるくこ
とはできない。自分を見せびらかすものには、何も見えない。みずから是し
いとするものは、他人よりきわだって見えることは、ない。自分でほめるも
のは、何も成功しない。した仕事を誇りにするものは、長つづきしない。」(第
24章)ということがよくわかっているからであり、だからこそ「自分を見せ
びらかさないから、彼ははっきりと見られ、自分を是しいとしないから、き
わだって見える。自分でほめないから、成功し、した仕事を誇らないから、
いつまでももちこたえる。」(第22章)、「彼は争うことをしない。だから、天
下の人々はだれひとり彼と争うことができないのである。」(第66章)、「だか
ら、大丈夫たるものが身をおくのは、しっかりした厚みの上であって、薄っ
ぺらな外殻にではない。果実(実のあるもの)に身をおくものであって、花
びら(飾りたてたはなやかさ)にではない。まことに、あのこと(外見や予
見に従うこと)を斥けて、このこと(道のはたらきに従うこと)をとるべき
である。」(第38章)と強調する。要するに、天下の人々の先頭に立たないの
は、主としてあらゆる官の長となるためであり、永久に弱いままで、強きに
傾き終局の方向に向かわないような状態を志向する。それゆえ、第34章で「聖
人はその偉大さを見せびらかすことは決してない。だからこそ、その偉大さ
が完全となるのである。」と述べ、「慈」や「倹」や「天下の人々の先頭に立
たない」ことを人生で修めるべき徳の重要な部分とし、個体の生死存亡の根
源論という高みにまで引き上げ認識している。このような「自然無為」の状
態に至り、「高い徳」や「處柔」を追求する人生の「三つの宝」の生存方式を
獲得していれば、その生き方には徳性があるということになろう。


老子の社会・政治論で述べられているのは主として統治方策の思想であ
る。統治者は低い徳を身につけている(つまり仁や義を重んずる)べきだが、
- 27 -


それだけでなくさらに高い徳をも身につけて(つまりなにもしないで治める
ということ)いなければならない。『老子』の大綱は無為にして治まるという
ことである。ゆえに国家を治めるには仁だの義だの礼などを重んじる必要は
ない。なぜなら忠誠と信義の実体が欠けていて、礼儀といううわべだけが残
っているというのは、まさしく一切の禍と乱の根源なのである。人間は、平
和で平等な社会状況に置かれていれば衝突や戦争をおこさないであろうし、
お互いの間にいざこざもなく平和共存できるであろう。


老子は「天と地には 仁 みはない。それらにあっては万物は、わらでつく
った狗のようなものだ。聖人にも仁みはない。彼にとって人民どもは、わら
でつくった狗のようなものだ。」(第5章)と言う。このように偏愛すること
なく人民に自然に生活させれば、社会に平和で安寧な気風をもたらすことが
できるのである。「口数が多ければ、しばしばことばの威力は使いはたされる。
心のなかにじっと保っておくにこしたことはない。」(第5章)から、政令が
多くて煩わしければ、逆に国を衰えさせるだけのこと、それよりも心をむな
しくし動かないようにしている(無為にして治まる)のにこしたことはない、
と警鐘を鳴らしている。有名な治国の方略「大きな国を治めることは、小さ
な魚を煮るのに似ている。」を老子は提唱するが、これは大きな国を治めるの
は小さな魚を煮るのと同じでしじゅうつつきまわしてはならず、さもないと
魚をぐちゃぐちゃにしてしまうということである。統治者が煩瑣な政令や過
酷な税金によって民の生活をかき乱さず、彼らが落ち着いて楽しく働けるよ
うにし、静観してなにも手を出さなければ、すぐに無為にして治まるという
状況になるが、そうしなかったならば、民の生活を妨げ害を及ぼし、天下は
すぐに動揺しはじめ世の気風は日に日に悪くなって大乱がおこることになる
であろう。


老子の無為にして治めるという考え方は素朴な弁証法思想を含んでいると
言ってよいであろう。しかし、現代の社会生活においてこの素朴なユートピ
ア社会を確立できるかどうかについてはさらに検討の余地があろう。
老子の社会・政治論には「貧困の共有」という均等主義の思想がある。彼
は「天の道はこのように多すぎるものから減らして、足りないものへ補って
- 28 -


やる。」(第77章)と言い、社会で最も恐ろしいのは富の偏在であり、天の根
本的な道理とは余っているところと足りないところでうまく補いあわせ、バ
ランスのとれた状態におくことであり、このようにしてはじめて社会は長く
平和に治まるのだと強調する。「もし我々が手に入りにくい品を貴重とする考
えをやめるならば、人民の間に盗人はいなくなるであろう。もし人民が欲望
を刺激する物を見ることがなくなれば、彼らの心は平静で乱されないであろ
う。」(第3章)というのもこれと同じで、したがって心の裡は穏やかになり、
欲望も少なくなる。「貧困の共有」は実践の上では二つのレベルに分かれる。
老子は政治論と軍事論の中で「無敵」の思想を強調し、「大胆にやることを恐
れないものが殺される。臆病にすることを恐れないものが生き残る。この二
つのうち、どちらかが有利さにつながり、他が害悪につながる。天ににくま
れる、その理由をだれが知ろう。それゆえに聖人でさえ、ある場合には困難
とする。天の道は争わないで勝ち、ものを言わないで応えることにすぐれて
いるし、招かれないでも進んでやってくるし、のろのろしているようで謀り
ごとをうまくたてるものだ。天の網は広くて大きい。目はあらいが逃すこと
はない。」(第73章)と述べ、武勇を誇るべきでなく、武勇を誇れば身を滅ぼ
す禍が降りかかってくるであろう、だが自然の法則は戦わずしてよく勝ちを
収めることであり、この境地に到達したものが戦わずして勝てるのだと主張
している。『孫子』の「謀攻」で言う「百戦して百勝するのは決して善の善な
るものではなく、戦わずして敵を屈服させることこそ最上の法なのである。」
はこの老子の言わんとするところに近いようである。


また、老子は戦争をきらい、「武器は不吉な道具であって、貴人の用いるべ
き道具ではないのだ。どうしても用いなければならないときには、貪欲でな
いのが最もよい。勝利を得ても光栄ではない。それにもかかわらず光栄とす
るのは、人殺しを快楽とすることである。人殺しを快楽とするような人は、
天下において望みをはたすことはできないであろう。」(第31章)と述べ、戦
争は不吉なものであり、やむを得ぬときでなければおこなってはならず、仮
に勝利したとしても驕ってはならない、もし人を殺すことを楽しみとするよ
うになれば、その心は徳性を失い天下の人々の支持を得られないであろうし、
- 29 -


成功を収めることもできなくなると強調する。そして老子はさらにこの問題
について極言し、「武器があまりに強ければ勝つことがない」(第76章)とま
で言う。これは言い換えれば、戦って強さを誇れば滅亡に向かうということ
である。この戦わずして戦う思想は「何もしないで天下を治める」という老
子の思想の構成部分の一である。


老子は第69章で「災難のなかでも敵がいないことほど大きなものはない。敵
がいなければ私のいう宝をほとんど失うことになる。だから武器を高くかか
げて相対するとき、哀しみのあるもののほうが勝利をおさめるのである。」(帛
書乙本と傅奕本では“敵が無い”に作るが、王弼本や河上公本など通行本で
はいずれも“敵をあなどる”に作る)と述べている。ある国家、ある社会、
ある人間が敵を恐れる気持ちをもたなくなれば、進取の気性や警戒心は簡単
に失せ、危機に直面したとき、軽微な危機であれば国は亡び、重大な危機で
あれば道が失われるのである。孟子の「憂患の中にあってこそはじまて生き
抜くことができ、安楽にふければ必ず死を招くことがよくわかるのである。」
(『孟子』告子下)という言い方もこれと同工異曲である。智慧のまわる統治
者は敵がいないときには敵を作り出そうとする。国家に内憂外患の意識がな
ければ必然的に滅亡に向かっていくからである。だから老子は、国家と個人
は治に居て乱を忘れてはならず、そして自分のために対立する敵を意識的に
作り出し、深淵に臨むがごとく薄氷を踏むがごとき警戒の念を自らの中に植
え付けてはじめてその生命力と求心力を保持していけるのだと強調する。


もちろんこれらの思想は智慧の淺い者にはその深みがわからず、悟性の深
い者はそれを浅いものとは感じないであろう。


5 言語論と審美論


「道」には道路、行ないの規律、究極の本体という意味のほかに、ことば、
言語に類する意味がある。だから「道の道う可きは、常の道に非ず。」なので
ある。道う可き、すなわちことばにできる道であり、道とことばを密接に結
びつけてきている。
- 30 -


老子は事実上、中国哲学史の中で最も早く言語観と本体観との関わりを明
らかにした思想家である。 彼は哲学の本体論と言語の本体論、あるいは「道
と言」との、こうあらねばならないという関わりについて知悉し、人類の言
語には限界があって、宇宙の本体と規律を完全に把握しきることは不可能で
あり、もし限界のあるこの言語に偏執するならば、道を認識する過程でおそ
らく岐路に迷い込むであろうと言っていた。言語の矛盾はまさにこの、言語
は事物の本体を窮め尽くすことはできないが、人間は定めの如く言語の手を
借りずして本体を「道い」あらわすことはできないというところにある。言
い換えればつまり「道」はことばにできないものである。しかし言い尽くせ
ないことばで、ことばにできない「道」をうまくあらわすことができるので
ある。老子は第56章で「知っているものはしゃべらない。しゃべるものは知
っていない」と言い、宇宙の中の真実は言語によって把握し伝えあえるもの
ではないことを強調する。そのことばにはできない道に相対してもことばを
用い努力して暗示もしくは伝達しようとし、そこから「“玄”よりもいっそう
見えにくいものというべきであろう。それは、あらゆる“妙”が出てくる門
である。」(第1章)という不可思議な境地に入り込んでいく。 これは中国の
思惟構造と言語構造のすぐれた点であり、道の本体と言語の分離性と親和性、
遮断性と開放性という複雑な構造の関係である。


この「思考と言語」、「言語と道」という複雑な構造の関係は、『老子』の中
では主としてつぎのいくつかの点において表現されている。すなわち、「正し
いことばは、真実に反するように聞こえるものである」(正言如反)、「たとえ
て言う」(喩言)、「ことばをまれにしか用いない」(希言)、「自分のことばの
価値を高める」(貴言)、「ことばがない」(不言)などである。ことばは所詮、
道との間に隔たりがあり、道を完全には把握しきれないものである以上、限
界のあることばの暗示を通じて無限なる道を明らかにしていくしかない。老
子はこの限界のあることばを無限化し、「正しいことばは、真実に反するよう
に聞こえるものである」という弁証思惟の方法を運用する、つまり逆転の思
考と正反対のことばによって、本当の意義と主要な目的を達成しようとする
のである。本当の「道」がことばにあらわせないのは、それが永遠に釣り合う

- 31 -

名前がないためで、「不言」「貴言」「希言」などの方法を通じてかろうじて
指し示すことができるだけであり、「正しいことばは、真実に反するように聞
こえるものである」というひとつの言語空間を形成している。だから、「ある
ものを収縮させようと思えば、まず張りつめておかなければならない。弱め
ようと思えば、まず強めておかなければならない。衰えさせようと思えば、
まず勢いよくさせておかなければならない。これが“明を微かにすること”
とよばれる。」(第36章)のであり、この「明を微かにすること」とは本来と
は反対の意味に解釈することにほかならない。


ことばについても同じであり、老子はいつも「行動しないようにせよ。干
渉しないことを事とせよ。味のないものを味わえ。小さいものを大きいとし、
少ないものを多いとせよ。怨みのあるものには、徳行をもって報いよ。」(第
63章)と繰り返し述べ、日常生活の習慣性と気怠さを吹き飛ばすこのような
警句でもって、日常の理性の惰性的な思惟を激しく揺り動かし、再認識する
視野を広げ、頓悟の中で言語の策略を突き抜けて「道」を理解させてくれる
のである。老子は一般的な道理にあわず、一般的な状態にあわず、世俗とあ
わないことばをいつも用いる。たとえば、「行動しないようにせよ。干渉しな
いことを事とせよ。味のないものを味わえ。小さいものを大きいとし、少な
いものを多いとせよ。怨みのあるものには徳行をもって報いよ。」(第63章)、
「信義のあることばは美しくない。美しいことばには信義がない。善人は議
論しない。議論に巧みな人は善人ではない。真に知る人は博識ではない。博
識の人は真に知ってはいない。」(第81章)など、日常用いられていることば
の経験性を強烈に打破し、斬新で哲理に富み人の目を覚まさせる。そしてそ
こから人に、このことばにできないことばを超越させ、あるいは逆転の思考
によって得た「その道に通ずることば」を通じて、あいまいながらも道の存
在を感得させようとしている。ここで筆者は、この「正しいことばは、真実
に反するように聞こえるものである」という言語の策略を、言語を通じ複雑
で曲がりくねった「道」の理解を目指す「言語のパラドックス」、もしくは目
新しくリニューアルされた喩言とよびたい。


また、老子はこのほかに「希言」を強調する。第23章で「いつでもおしゃ
- 32 -


べりであることは自然に反する。」とあるのは、文字通りの意味はつまりおし
ゃべりを少なくする、すなわちことばを惜しみ、ことばを貴重なものとする、
ということであるが、ここで言う「言」はもっぱら教化と政令のことを指す。
ただ、「希言」と「ことばのない教えをつづける」(第2章)ということとは
密接に相通じている。それだからことばを大切にし、すぐれたことばを貴い
ものとし、寡黙を佳とすることになるのであり、老子の「貴言」思想の重要
な横糸と言えるであろう。


もしかすると、ことばは本当に思想の「おり」であるかもしれないが、我
々はその「ことばのおり」を通じて我々が言おうとする道を言うしかない(42)。
ことばには二重性があり、その一つは遮蔽、もう一つは開放である。ことば
の意味が大きく広がっているとき、一方である意味を覆い隠しており、こと
ばがある意味を覆い隠しているとき、ある別の意味が暗示され広がりをもっ
てくるだから老子自身も正しいことばは真実に反するように聞こ(43)。、「、
えるものである」、「あともどりするのが“道”の動きかたである」という見
方を通して、「道」の踪跡、「道」の法則性をことばの中にうかがい見るにす
ぎない。ことばの二重性は、我々が心底から理解したと思っても握手するは
なからもう背を向けている「道」を表現するには、「うそを言わないこと」(不
姿言)、「でたらめを言わないこと」(不妄言)、「徹底的に言い尽くさないこと」
(不窮言)、「直言しないこと」(不直言)、「ごまかさないこと」(不蔽言)と
いう方法しかないことをを教えてくれる。このようにしてことばを通じまた
ことばを超えて、ことばの背後にある「道」が明らかにされるのである。


この言語本体論は老子の審美本体観と密接に結びついている。
老子の審美観は主に以下の内容を含んでいる。一つは本体の美、混沌の美
を強調し、人々の目を眩ませる多様な色彩、人々の耳をだめにするさまざま
な音楽、人々の口を楽しませるいろいろな味覚などに反対し、このような度
を超した感覚的、表面的で移ろいやすい美は人間の心身の健康を損なうもの
であり、芸術と審美の活動の外に置かれるべき、単純で感覚的な享楽である
と考えている。


老子は自分独自の審美観を提示している。
- 33 -


まず、老子は「徳」があり「道」がある美、長く安定していて、その内に
輝きをもっている美を追求する。第14章で「それらは状なき状、物とは見え
ない象とよばれ、はっきりとはしないそれらしきものとよばれる。それに正
面から向かっていっても頭が見えないし、あとについていっても後ろ姿も見
えない。」と言っているが、この道の本体と相通じているものは精神的な美で
あり、生命存在のみなぎっている美しさである。


つぎに、老子は「沈黙」の美学を説いている。審美のやり方については「神
秘的な幻想をぬぐい去って、くもりがないようにし」(第10章)、「隠された本
質をみる」(第1章)ことで「清らかに静かであるものが天下の長となる」(第
45章)状況をうやまい慕うべきだと強調する。要するに、くもりがないよう
にして落ち着いてみること、静かに隠された本質をみることを強調している
のであるが、つまり無を通して有をみ、形あるものを通して形のないものを
み、見えるものを通して見えないものをみ、実を通して虚をみ、小さいもの
を通して大きいものをみ、象を通して道をみようとしているのである。だか
ら老子の沈黙の美学はあまり多くを語らない、あるはなにかを言おうとしな
い美学であり、沈黙の中で見つめ合って微笑む、ことばのない大いなる美で
あると筆者は考えている。またこの点から中国の芸術が受けた影響は甚大で
計り知れない。


またさらに老子は「淡」の美学を強調する。それはあまりに濃すぎて消え
ることのないのもの、上っ面に欲望と繁雑な装飾を加え足していくようなや
り方とは全く反対で、むしろ引き算をするほうが得意であり、「学問をすると
きには、日ごとに学んだことが増してゆく。“道”を行なうときには、日ごと
にすることを減らしていく。」(第48章)と述べ、人の心から絶えず何かを取
り除き、欲望を減らしていけば、最後には本当の心が姿をあらわし、「道」の
本体を理解できるとする。だから、審美については、「いかにも淡泊で味がな
い。それは見つめてもよく見るほどのものではないし、耳をすましても聞く
ほどのものでもない。だがそれは用いてもいつまでも使いつくせないほどで
ある。」(第35章)という審美観、道の本体の「あらゆる“妙”が出てくる門」
を直観的に理解する審美論を老子は強調するが、それは「何もないことの有
- 34 -


用性(が根本に在るの)である。」(第11章)という審美のアンチ功利論でも
ある。


この淡泊で無味に近い審美趣味と「隠された本質をみる」ことの無限性及
び奥深くすぐれた性質は中国美学の玄妙なる精神を形づくり、そして後世に
恩沢を与えている。


6 老子思想の智慧の意義


老子は中国の学術史上、議論が百出した一個の文化哲学現象である。
まず、老子自身が相反する議論を内に抱え込んでいる問題にほかならず、
二重性をそなえた矛盾体である。一方で、老子は「礼」の専門家であり、孔
子もかつて彼に「礼」について質問したことがあるが、晩年になると老子は
「礼」に手厳しい批判を加えている。しかしながら、『老子』の中では意外な
ことに慈、倹、孝、祭祀など「礼」に関する問題について大いに論じている。
老子は「道」の本源性と宇宙の生成性を強調するが、それはことばにはでき
ないものと考え、「道」を神秘化、虚無化するように覆い隠したため、ことば
と「道」の関係に矛盾が生じることになったのである。隠者として、また「不
言」、「貴言」、「希言」の唱導者として、彼は著述をせず、弟子もとらなかっ
たが、関所を出るときにだけ堂々たる五千字の「思者自道」を残した。この
発憤の書は彼が唱導するところの清静無為の境地とは確かに矛盾している。
彼の書を「陰謀家の治世の術」で「君主南面の術」などと言うものもいるが、
彼は『老子』の中ではっきりと専制独裁統治に反対し、戦争に反対し、一切
の社会の不平等に反対している。こうした諸矛盾が老子の神秘的な表情と『老
子』という書の神秘的色彩を生み出しているのである。


根本に立ち返り、無知、棄智を主張する老子のやり方は、多くの学者から
批判を浴びる。また彼の、心を静めてなにもなさず、柔らかく弱々しく他意
を迎えあえて逆らわないという考え方も、進取の気性が乏しく退嬰的とみな
され、「小国の寡民」に至っては、原始社会に後退する消極的思想と受けとめ
られた。これらはいずれもみな批判もしくは検討に値する点があるかもしれ
- 35 -


ないが、たとえどうであるにせよ、老子の中国哲学思想史への貢献は非常に
大きいものであり、彼は「道」を通じて神や上帝といった有神論の哲学源流
に反対し、同時に中国哲学史上に哲学の概念、パラダイムと体系をうち立て
た。中国の哲学の中に含まれる本体の概念の提示とその規範となる模式の構
築は、いずれも老子と関わりがある。同様に重要なのは、老子のこの「哲学
詩」もしくは「詩的哲学」は中国哲学の思惟と詩学の風格すべてに影響を及
ぼしてきたことであり、老子の貢献を拭い消し去ることはできないであろう。


老子の智慧、思想は、伝統文化に多大な影響を与えただけでなく、中国人
の文化心理構造にも重要な作用を及ぼしている。儒家と道家は互いに調和し
ている剛と柔であるというその考え方は、中国の文人の心理構造を制約し、
中国伝統文化の発展と完全性を規定しつつ導いてきた。彼の思想は哲学、政
治学、社会学、詩学などの分野に影響しただけでなく、教育、政治、法律、
経済、論理学、心理学や宗教などの領域においても看過できない影響を及ぼ
している。


老子は道家学派の創始者として漢代以後、次第にに神格化され宗教化され
て道教の教主となり、「太上老君」とよばれるようになる。ただ彼の思想は道
教と関連性があるとはいえ、両者の間には本質的な違いが存在する。また老
子の思想は後世の道家の諸派に大きな影響を与えた。先秦から明清まで老子
の影響を被った道家の学派はたくさんある。たとえば、荘子を代表とする逍
遙派、『呂氏春秋』に代表される養生思想を中心に据えた養生派、「玄の又玄」
を強調する漢代の揚雄に代表される玄学派、漢代の劉徳を代表とする知足派、
魏晋の王弼、何晏を代表とする貴無派、そして「道は隠れて名無し」という
宗旨の影響下にある隠逸派などがある。二千数百年来、老子とその書、その
思想は儒家思想とともに中国思想の枢軸を構成していたと言えるであろう。
老子の思想は中国人の思惟に重大な影響を与えただけでなく、日本や西洋
にも軽視できない大きな影響を及ぼしていた。隋代には早くも日本に『老子』
が伝わり、平安初期には『老子』に注を加えた書籍、たとえば河上公、王弼、
梁武帝、唐玄宗、成玄英など人々のの注釈書が大量に将来されている。江戸
時代になると、日本でも独自の老子学派が形成されている。20世紀の日本人
- 36 -


研究者も老子には熱烈なる関心を示し、数多くの翻訳が出版されたのみなら
ず、研究書も八十余点上梓されている。


西洋では前世紀から今世紀末までに八十数種の『老子』の翻訳本が出てい
る。1823年にはフランス語の抄訳本が出、1842年には『老子』の完訳本が出
版された。1872年の前後にはドイツ語訳本と英語訳本が刊行されている。18
93年、ロシアのレフ・トルストイはドイツ語訳から『老子』を重訳している。


第一次大戦後、ドイツでは「老子ブーム」がおこり、80年代初頭までにド
イツで出版された『老子』の訳書は十余点を数える。特に著名な哲学者ハイ
デッガーは晩年、黒森に住んでいたが、彼の机の上にはこの『老子』が置か
れていた。彼の晩年の思想、とりわけ「道」に関するもの、言語に関するも
のなどは老子の神秘的な東洋思想との間に無視することのできないつながり
がある。また、ロシアの学者の「老子学」の研究も高いレベルに到達してい
る。


この数十年来、アメリカの学者は非常に「老子学」の研究を重要視してい
る。比較的重要な翻訳と著述に、林語堂編訳の『老子の智慧』 (44)、ブレイクニ 
ー編訳『生活の道』(45) 、陳栄捷著『老子の道-道徳経』(4 6) 、R.G.ヘンリッ  
クス訳『老子「徳道経」』 (47)、A.シャア編『道-東洋と西洋とにおける受容』(48) 
、M.ラファーグ著『道と方法』(49)などがある。


総じて言えば、老子の思想は中国思想の重要な構成要素であるだけでなく、
すでに世界的意義を有する重要な思想となっているのである。老子の思想は
現在の全地球的規模な消費主義化、デジタル化の流れの中で、重要な警世の
意義を有している。生態のバランス、生存競争、享楽主義、拝金主義、快楽
の追求といった思潮の前において、老子は疑いもなく警世の鐘であり、知の
思索から生命の道、社会の道と宇宙の道を見るよう人々に語りかけてくる。


本来の真性をまもり、物欲に煩わされない老子の思想、智慧は、時代の変
遷によって消えてなくなることはありえない。道と相通じている彼の思想そ
して大いなる智慧のことばは新時代、新世紀においても人類の生存に全く新
たな啓発と影響を与えることであろう。
- 37 -


[原注]
(1)王泛森『古史辨運動的興起』,台湾,允晨文化実業公司,1987年版。
(2)その代表的人物としては陳師道、葉適、黄震などがあげられる。
(3)汪中『老子道徳経考異序』,『経訓堂叢書・百部叢書集成』28所収,台湾芸文印書
館。 汪中『述学、補遺、老子考異』,揚州書局重刊本。
(4)崔述『崔東壁遺書・洙泗考信録』,古書流通処影印本。
(5)梁啓超「評論胡適之中国哲学史大綱」,『飲冰室合集』第38巻,第50~68頁,中華
書局1936年影印版。
(6)張煦『梁任公提訴老子時代一案判決書』で梁啓超の見解を「古い時代の様相がわ
かっていないのか、古書について無知なのか、訓詁を知らないのか、歴史に通じて
いないのか、その立論は勇み足にすぎ、焦っていろんなものをかき集めたため、誤
りがたくさん生じ、そのありさまは流れ出てくるようである。」としている。羅根澤
編著『古史辨』第4冊所収,香港,太平書局,1962年版,第311頁。
(7)胡適『中国哲学史』巻上,上海商務印書館,1926年版。
(8)唐蘭『老髟的姓名和時代考』,『古史辨』第4冊所収,第332~351頁。
(9)郭沫若『老髟・関尹・環淵』,『古史辨』第6冊所収,第631~663頁。
(10)黄方剛『老子年代之考証』,『古史辨』第4冊所収,第353~383頁。
(11)馬叙倫『辨「老子」非戦国後期之作品』,『古史辨』第6冊所収,第526~533頁。
このほかに馬叙倫は老子の意味深い詩的な文体は『易経』の爻辞や『詩経』の雅・
誦の詩とよく似ているところもあるが、『論語』とも通ずるところがあるとしている。
「そもそも昔は墨や紙を使って書き写し伝えるということはなく、みな木簡や竹簡
に刻んでいたから、文章は簡潔を第一とした。また多くは口頭で伝承されたから、
みな韻を踏んでいるのである。『老子』の文章はこの二つの条件とみな合致しており、
戦国後期の作品でないことは明々白々である。」 張揚明『老子考証』第260頁から
の引用。台湾,黎明文化事業公司,1985年版。
(12)高亨『重訂老子正詁』,北京,古籍出版社,1957年版。
(13)詹剣峰『老子其人其書及其道論』,武漢,湖北人民出版社,1982年版。
(14)陳鼓応『老子注訳与評介』,北京,中華書局,1984年版。
- 38 -
(15)梁啓超「評論胡適之中国哲学史大綱」,『飲冰室合集』第38巻所収,第50~68頁。
(16)銭穆『関于老子成書年代之一種考察』,『古史辨』第4冊所収,第383~411頁。
(17)羅根澤『老子及老子書的問題』,『古史辨』第4冊所収,第449~462頁。
(18)譚戒甫『二老研究』,『古史辨』第6冊所収,第473~536頁。
(19)孫次舟『再評「古史辨」』,『古史辨』第6冊所収,第100頁。
(20)梁啓超の主な論点をあげると、その一、老子の八代目の子孫と孔子十三代目の子
孫が同時代の人間だったというのは無理がある。その二、墨子孟子の書物のなかで
老子は全く言及されていない。その三、謹厳実直に礼を守ろうとする老子とこの五
千言の精神は相反する。その四、『荘子』の寓言の十分の九は歴史事実とみることは
できない。その五、老子の話はあまりに自由すぎ、あまりに激烈であり、春秋時代
の人の言説らしくない。その六、『老子』の中で用いられている「王侯」、「王公」、「万
乗之君」、「取天下」、「仁義」などのことばは戦国時代の用語である。 梁啓超「評
論胡適之中国哲学史大綱」,『飲冰室合集』第38巻所収,第50~68頁。
(21)顧頡剛『従呂氏春秋推測老子之成書年代』,『古史辨』第4冊所収,第462~519頁。
(22)張寿林『老子道徳経出于儒後考』,『古史辨』第4冊所収,第317~332頁。
(23)張季同『関于老子年代的一仮定』,『古史辨』第4冊所収,第422~443頁。
(24)羅根澤『老子及「老子」書的問題』,『古史辨』第4冊所収,第449~462頁。
(25)馮友蘭『中国哲学史』,北京,中華書局重印,1984年版。『中国哲学史新編』上冊,
北京,人民出版社,1965年版。
(26)熊偉『従先秦学術思想変遷大勢観測「老子」的年代』,『古史辨』第6冊所収,第
566~597頁。
(27)張西堂『張西堂先生序』,『古史辨』第6冊所収,「張序」第2頁。
(28)しかし、張煦は『梁任公提訴老子時代一案判決書』の中で、『老子』の中には戦国
時代の用語がたくさんあるとする梁啓超の説は成立し得ないことをすでに指摘して
おり、その理由を、梁啓超が指摘したもののうちそのかなりの部分は春秋時代の用
語であり、一部の「偏将軍」、「上将軍」などのことばは後世の人の改竄によるもの
にすぎないと断じている。
(29)唐蘭は『老髟的姓名和時代考』の中で、老子の「不尚賢」と墨子の「尚賢」とは
何の関わりもなく、「賢」という字は当時はやっていた一つのテーマであり、「道」、
- 39 -
「徳」、「仁」、「義」、「名」、「実」などと同じく、各思想家の学説の中で議論される
べきものであり、それゆえどの書がどの書の影響を受けているという影響関係を云
々することはできないと指摘する。『古史辨』第4冊所収,第332~351頁参照。
注目に値するのは、『太平御覧』巻513に引かれた『墨子』に、「老子曰、“道沖而用
之,有弗盈”」とあることである。高亨は『重訂老子正詁』でこれに基づき『老子』
は『墨子』よりも早く成立していたと強く主張する。
(30)この観点は劉笑敢著『老子』の中ですでに具体的に論じられており、『老子』と『詩
経』が文の構造、修辞法、押韻の形式などの上で多くの似通ったところがあり、そ
こから老子の年代は春秋末期であることを論証している。劉笑敢『老子』,台湾,東
大図書公司,1997年版参照。
(31)胡適は孔子より前には個人の著述は存在しなかったという説には根拠がないとし、
孔子が三歳のとき叔孫豹は「三不朽」の説をすでに語っており、そのなかで「言を
立てる」ということをなにかを代々伝えていく重要な方法とし、さらに「魯有先大
夫曰臧文仲,即没,其言立」〔魯には臧文仲と申す大夫がいましたが死後もそのこと
ばは世に行われています〕と述べていたことを指摘する。『古史辨』第4冊所収,第
418頁。
(32)陳鼓応『老子晩出説在考証方法上常見的謬誤』,『道家文化研究』第4輯,上海古
籍出版社,1994年版。
(33)呂思勉『先秦学術概論』,北京,大百科全書出版社,1985年版,第27頁。
(34)『馬王堆漢墓帛書老子』,北京,文物出版社,1976年版。
(35)荊門博物館編『郭店楚墓竹簡』,北京,文物出版社,1998年版参照。
(36)楚簡『老子』の刪節抄本は、長さが違い性質も異なる三種類の竹簡の上にそれぞ
れ異なる字体で書写されており、整理者はこれを甲乙丙三つのグループに分けてい
る。三種類の竹簡の書写された年代はみな全く同じというわけではなく、内容もほ
とんど重複しない。一般的には、甲組本のほうが祖本により近く、丙組本は馬王堆
帛書や今の通行本と近いと言われている。
(37)『老子』帛書甲本は各篇の前に篇名がないが、帛書乙本には篇の末尾に「徳」、「道」
の二文字を題とする。ただし、「経」とは称していない。
(38)張岱年『中国古典哲学概論範疇要論』,北京,中国社会科学出版社,1989年版,第
- 40 -
25頁。
(39)高亨『重訂老子正詁』,北京,古籍出版社,1957年版,第24頁。
(40)郭店本『老子』の甲組本ではこの前の二句はここと異なり、「致虚,恒也,守中,
篤也。」につくり、「守中」の思想をきわだたせている。「守中」の思想は通行本の第
5章でも述べられている(「多言数窮,不如守中」)。老子の守中と尚中の思想は心理
状態の調和と安定を強調しており、儒家の中庸思想(不偏不倚)と比較すべき点が
あると言えるであろう。
(41)銭鍾書『管錐編』(第2冊),北京,中華書局,1979年版,第445~446頁。
(42)Cf.FredricJameson,Theprison-house of language, Princeton University
Press,1972.
(43)Cf.Martin Heidegger, On thewaytolanguage;trans.byPeterD.Hertz.
NewYork : Harper & Row, 1971.
(44)Lin Yutang,The wisdom of Laotse. NewYork : ModernLibrary,1948.
(45)R.B. Blakney.ed .and trans., The wayoflife:LaoTzu.NewYork:New
American Library,1955.
(46)Wing-tsit Chan,trans.,The way of LaoTzu:Tao-te ching. Indianapolis :
The Bobbs-Merrill,1963.
(47)Robert G.Henricks,trans.,Lao-tzu Te-taoching, NewYork : Ballantine
Books,1989.
(48)Adrian Hsia, ed., Tao : receptioninEastandWest.NewYork,1994.
(49)Michael LaFargue, Tao and method : State University of New York Press,
1994.
[訳者附記]
本稿は、王岳川「老子:中国思想智慧之門」を訳出したものである。本文中()で示
したのは著者の注記である。なお、『老子』本文の翻訳は、小川環樹訳『老子』(中央公
論社,1997年版)を用い、使用テキストの異なる個所には変更を加えている。
- 41 -
主要参考書目
『馬王堆漢墓帛書老子』,文物出版社,1976年。
『郭店楚墓竹簡』,文物出版社,1998年。
『老子注』,王弼注,諸子集成本,上海書店,1990年。
『道徳経河上公章句』,中華書局,1993年。
『老子本義』,魏源撰,諸子集成本,上海書店,1990年。
『重訂老子正詁』,高亨著,古籍出版社,1957年。
『老子校釈』,朱謙之撰,中華書局,1991年。
『老子注訳及評介』,陳鼓応著,中華書局,1992年。
『老子校読』,張松如著,吉林大学出版社,1981年。
『帛書老子校注』,高明著,中華書局,1996年。
『帛書老子注釈与研究』(増訂本),許抗生著,浙江人民出版社,1985年。
『老子新編校釈』,王辛編釈,遼寧書社,1990年。
『李耳道徳経補正』,秦維聡著,中州古籍出版社,1987年。
『老子通解-唯道主義研究』,羅尚賢著,広東高等教育出版社,1989年。
『老子』,劉笑敢著,台湾,東大図書公司,1997年。
『中国道教史』全3冊,卿希泰主編,四川人民出版社,1988年。
『道家思想史綱』,黄釗主編,湖南師範大学出版社,1991年。
『道教通論-兼論道家学説』,牟鍾鑑著,斉魯書社,1991年。
『当代新道家』,董光璧著,華夏出版社,1991年。
『荘子集釈』,郭慶藩撰,諸子集成本,上海書店,1990年。
『荘学研究』,崔大華著,人民出版社,1992。
『古史辨』,羅根澤編著,第4冊,第6冊,香港,太平書局,1962年。
『飲冰室合集』,梁啓超著,中華書局,1936年。
『観堂集林』全4冊,王国維著,中華書局,1991年。
『管錐編』全4冊,銭鍾書著,中華書局,1979年。
『先秦学術概論』,呂思勉著,中華書局大百科全書出版社,1985年。
『中国哲学史大綱』巻上,胡適著,上海商務印書館,1926年。
『中国哲学史』上冊,馮友蘭著,中華書局重印,1984年。
- 42 -
『中国古典哲学概論範疇要論』,張岱年著,中国社会科学出版社,1989年。
『中国古代思想史論』,李澤厚著,人民出版社,1986。
『中国思想伝統的現代注釈』,余英時著,江蘇人民出版社,1989。
『中国人性論史』,徐復観著,台湾商務印書館,1969年。
『中国文献学』,張舜徽著,中州書画社,1982年。
『中国古代哲学問題発展史』全2冊,方立天著,中華書局,1990。

'佛道禅' 카테고리의 다른 글

人体的春夏秋冬  (0) 2022.03.05
道為什麼不可說  (0) 2022.03.03
禅心诗语悟红尘  (0) 2022.02.27
关于邵雍先生的渔樵问对不读是遗憾  (0) 2022.02.27
邵雍:从物理之学到性命之学  (0) 2022.02.27

댓글